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この道の先に  作者: 奏多悠香


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19/38

19 ファヴィエの夢

 ダミアンから伝言を受け取って、皇子はモーリスの家に向かった。

 ニラの父、ベルナール・ファヴィエが皇子に会いたがっているという。

 セリアに案内されて小さな部屋に入ると、ニラの父親はひどくうなされていた。


『アリアナ様! ここは危険です。早く山へ……ああ、追手が……アリアナ様……!』


 あまりにも苦しげな声に皇子がそっと体を揺すってやると、はっと目覚めて何かを振り切るように首を振った。そしてずんと枕に沈み込む。

 額に玉の汗がにじみ、表情はひどく苦しげだった。


「ああ……あなたでしたか」


 絞り出すように紡がれた言葉が、体の痛みの凄まじさを物語っている。

 皇子は寝台の脇に置かれた小さな椅子に腰を下ろした。普段はニラがここに座っているのだろうか。皇子には少し小さく、膝が窮屈に折れ曲がる。


「わざわざ出向いていただき申し訳ありません」

「構わない。私も話したいと思っていた」


 ベルナールの額を伝った粒汗が枕に落ちて小さな染みになった。先ほどよりかは幾分顔色がましになったが、具合は悪そうだ。


「……そなた、アリアナという女をよく知っているのか」


 皇子の問いに、老体は珍しく瞳を揺らした。


「なぜですか」

「うなされて、しきりに名を呼んでいた」

「……ナヴィニアに彼女の名を知らぬ者はおりません」

「そなたはアリアナ・ダリスの最期を知っているのではないか」


 さっきのセリフは、どう聞いても戦火の中でアリアナと出会ったときのものに思えた。

 だが、ベルナールは首を振った。ずりずりと、頭が枕に擦れる音がする。


「いいえ」


 きっぱりと言い切ってまっすぐに見返してくる瞳は、嘘ではないと言っているように思う。

 が、百戦錬磨の老兵からすれば若輩者の自分を騙すことなど容易いのかもしれない。

 

 ――アリアナ、か。


 別にアリアナの最期を知ったところでどうなるわけでもない。ただ、気になった。凄惨な最期ではなかったと信じたかった。幸福な最期だったか、もしくは今でも幸せに生きているならば、ニラの罪が少し軽くなるような気がしたのだ。

 罪。

 その言葉に至って、思わず自嘲した。

 ニラが仮に王子をアリアナという女から奪ったのだとしても、可愛い罪ではないか。自分はその王子の命を奪ったというのに。

 命。

 罪。

 近頃そんなことばかり考えている。

 わかっていなかったわけではない。

 戦で死者が出ることも、恨みを買うことも。

 戦場へ出れば自分だっていつ死ぬかわからないのだ。軍を率いてきた分、戦の惨たらしさは誰よりもよく知っているという自負さえあった。

 だが、なぜか今になってそれらが重みを増し、心にのしかかってきた。

 いつだったか思い出した小鹿の瞳が脳裏に焼き付いて離れないのだ。


「……ニラは……」

「娘が、どうかいたしましたか」

「国民の誰もが愛したという、そのアリアナという女から……フリーデベルト王子を奪ったのだろう?」


 ベルナールは驚いたらしかった。力なく下がっていた瞼をぐいと開き、皇子を見つめてくる。

 こちらがそこまでの情報を持っているとは思わなかったのか。


「……王子はあの子に心底惚れていた。ただそれだけのことです」


 ベルナールはまっすぐにこちらを見ながら、わずかに口角を上げた。

 その小さな笑み一つで、これ以上語る気はないということを伝えてくる。


「あなたにお願いが」


 笑みを浮かべた顔のまま、ベルナールは言った。


「何だ」

「ダリス家の墓所に騎士の像があります。馬に乗った騎士です。その台座の扉の中にある2通の手紙を、取り出していただけますか。扉の鍵は騎士の視線の先にある大木の根元に埋まっています」

「……どういうことだ」

「ダリス家のご子息から頼まれていたのですが、ナヴィニアに戻ることはできそうにない。約束を果たせなかった私の代わりに、どうか」


 自分がこの男の願いを聞いてやらねばならない理由はひとつもない。それでも、懇請されると断りにくい。


「……なぜそんなに手の込んだことを?」

「略奪や放火により手紙が消失することを恐れたからでしょう。よほどのことがない限り墓所は無事ですから」


 ダリス家の子息、か。

 つまり、アリアナの兄。

 だからニラには頼めない、ということか。


「近くナヴィニアに行くつもりだから、そのときに必ず」

「ありがとうございます。一通は私宛の手紙だと聞いています。もし手紙を取り出すのが私の死後になったなら、私宛の手紙は開封してくださってかまいません」

「私が読んでしまっていいのか?」

「はい」


 ベルナールはそう言ってから、一度ゆっくりと目を閉じた。

 モーリスによると、このところずっと眠ったり起きたりを繰り返しているということだから、もしかしたら眠りに入ったのかも知れない。そう思ってゆっくりと踵を返そうとしたら、パチリと目が開いた。しかしその目は皇子ではなく、天井を見つめている。


「それからもう一つ」

「何だ」

「あの子のことです」

「ニラ、か」

「私の死後、あの子を見守ってやっては下さいませんか」


 耳を疑った。


「……なぜ私に?」

「頼める人が他にいないのです」

「モーリスやセリアでは頼りにならないか」


 セリアは随分とニラを気にかけているし、モーリスも同様だ。血塗れの自分よりも彼らの方がよほど適任に思えた。


「彼らはニラにとてもよくしてくれる。だが……」

「だが?」

「それは私と同じで、柔らかな真綿で包むような愛情です」

「……それではダメだということか?」


 ベルナール・ファヴィエは細くゆっくりと息を吐いた。


「あの子はまっすぐな子です」


 まっすぐな。

 その表現は感覚的すぎて、皇子にはよくわからなかった。


「幼い頃からずっと」


 そして眼を細める。

 この老体の目にはたぶん、その頃のニラの姿が見えているのだろうと、そんな風に思えてくるほど穏やかな顔をしている。


「何事にも一生懸命で、歪んだことが大嫌いだった。理不尽なことが許せなかった。苦しんでいる人を放っておけなくて、まるで自分のことのように悩む子だった。だからあの子の小さな心はいつも傷だらけで、こらえきれなくなると膝を抱え、部屋の隅っこで泣いていた」


 ニラが。


「純粋すぎて、いつか押し潰されはしまいかと心配になることさえあったほどです。しかし、成長するにつれ快活さを増し、聡明で正義感の強い人物に育ちました」


 唐突にはじまったこの昔話がどこへ向かっているのか、想像もつかない。


「だが、あの出来事が……」


 戦、か。


「抜け殻のようでした。本人は必死で前向きに生きているつもりだったのでしょうが、見ていて痛々しいほどで。身動きが取れなくなっていた、と言うべきでしょうか。暗闇の中で立ち尽くし、心に蓋をして。私に心配をかけまいと、時折笑顔の仮面を貼り付けて」


 皇子は言葉を失っていた。


「それでよいのかもしれないと思いました。いや、思っていました。つい最近までは。しかしようやく気付いたのです。生来の豊かな感受性を押し殺した生活は、あの子の心を少しずつ蝕んでいるのだと」

「心を……?」

「『わからない』と」

「なに……?」

「気持ちを問うたとき、あの子の口から『わからない』という言葉が返ってくることなど、無かったのに」


 むしろ皇子は、その言葉しか聞いたことがないと言っても過言ではないほど繰り返し耳にしてきた。


「自分の感情がどこに向かっているのか、あの子は自分でもよくわからなくなっていた。血を流し続けている心にただ蓋をしたところで、傷が癒えるわけではない。それどころか、蓋の下に溜まった血は、いずれ行き場を失って噴き出すでしょう」


 心が血を流すなど。

 考えたこともない。


「……しかしあなたに出逢ってから、ニラは良くも悪くも揺れ動き、生きた感情を取り戻しているように見えます」


 その瞬間、自分の顔が歪んだのを自覚した。


「私は……彼女を苦しめてばかりだと思っていたが」

「ある意味ではそうでしょう。だが、そのお陰であの子は息を吹き返した。私にはできなかったことです。共有した思い出が多すぎて、互いの気持ちをわかりすぎて、そして、愛しすぎて、くるまれた真綿の中からあの子を引きずり出すことはできなかった」


 ニラを苦しめたことが、結果的にはよかったということなのか。

 すぐには理解できない話だった。


「ニラはあなたと出会ってから少しずつ過去と向き合っている。私はそれを見守ることしかできずにいるが、もうすぐそれすらもできなくなります。私に残された時間はごくわずか。だから、あなたに頼みたい」

「わずかなど……」

「自分の体のことです。誰よりもよくわかっている。ナヴィニアにいたころから、もう長くはないと言われていました。そして、それでよいと思っていました。思い残すことは何ひとつないと。1年前のあの日までは」

「あの日……」


 ナヴィニアの城が陥落し、ニラが想い人を失った日。


「この1年、あの子が私が生きる意味だった」

「……ニラを守ることが、か」

「いいえ、逆です。私が守られてきたのです。あの子と共に生き延びるという使命に、私は生かされてきました。もうとうに死んでいておかしくない身で」


 皇子に子がいたことは無い。

 だから、子にかける愛情がどれほどのものかはわからない。

 だが、想像することはできる。自分が姪や甥に対して抱く愛情をはるかに凌駕するものなのだろう。命を長らえるほどなのだから。


「……あの子から聞きました。囚人の手当てこと、使者のこと」

「ああ」


 思考を引き戻され、ゆっくりと頷いた。

 悩んだ末に、皇子は本国からウラジムに正式な使者を立てることにした。すぐに攻め込むことはせず、平和な解決の道を探ろうと考えたのだ。

 そしてニラには、地下牢に囚われた男の手当てを頼んだ。

 

「何が正しいのかわからないが、これまでとは違う道を探ってみることにした」


 将軍の座についてからずっと、領土拡大の一路をひた走ってきた。

 拡大を続けた領土からはそれぞれに潤沢な資源が集められ、オード帝国の民の生活は随分と豊かになった。

 だが、ここに来てその道筋は行き詰まりを見せていた。

 各地で不穏な動きが続き、絶えずどこかの属領で小競り合いが起こる。そのすべてに目を光らせ、参謀のグレンと額を突き合わせて地図を覗き込む生活に疲弊していた。

 何の因果か、そんなときにニラと出会ったのだ。

 そしてこの、ニラの父とも。


「……そなたともっと話がしたかったな」


 去り際にこぼした言葉に、老体は黙って頷いた。

 ベルナール・ファヴィエがニラに見守られて静かに息を引き取ったのは、それから2日後のことだった。




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