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この道の先に  作者: 奏多悠香


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13/38

13 ニラの夢

 夢を見ていた。

 幸福な夢を。


『ニラ、君にこれを』


 暖かく大きな手がニラの首にそっと触れ、小さな石のついた首飾りをかけてくれる。


『わぁ、キレイ!』


 光に透かした石は四方八方に光彩を放った。


『私の愛の証だよ』


 幼いニラにはその言葉が少しくすぐったい。

 それを誤魔化すようにくすくすと笑いながら答えた。


『ありがとう、フリード』

『私たちからはこれを』


 双子の兄が二人揃って箱を差し出す。箱には大きなリボンがつけられ、ほどかれるのを今か今かとまっている。


『わぁ、兄さまたちからも?』

『十七歳おめでとう』


 今日は十七歳の誕生日。

 十七。

 その数字に何か違和感を覚えた。

 ……十七歳?

 ちがう、あのプレゼントは十五歳の誕生日にもらったもの。

 十六歳はどこへ行ってしまったのだろう。十六という年齢は確か自分にとってとても特別なもので、忘れてはいけない大切なことがあったはず。

 自分を呼ぶ暖かな声がする。大切な人だけが呼んだ、あの呼び名で。



*********************



 遠慮のない足音に皇子の意識がすっと浮上した。目を薄く開き、枕の下の短剣を握る。

 扉の開く音に飛び起きて身構えると「あの子はどこ?」という聞きなれた声が飛んできた。

 この時間に護衛を黙らせてここまで来られるのはこの妹くらいのもの、か。


「セリア、灯りをこちらへ向けるな。眩しい」


 言いながら、利き手に握っていた剥き身の短剣を鞘に納め、また枕の下にしまいこんだ。そしてセリアの方へと視線を投げる。

 灯りを下げた妹は、彼女自身が燃え上がっているのかと思うほど煮えたぎった様子だった。髪の毛が逆立ち、こちらを見据える瞳の鋭さは自分にそっくりで奇妙に胸を騒がせる。


「あの子はどこよっ」

「どうした」

「ニラがまだ帰ってないのよ!」


 あの子、が何を指すかわからず首を傾げながら答えると、セリアは灯りを体の横で揺らしながら苛立った様子で言った。途端に皇子の体が揺れる。


「何っ」

「仕事から帰って来たあと、できた薬を城に届けるって言って出て行ったきり。子供たちを寝かしつけてる内にうたた寝をしていたから、その間に戻ってもう部屋に行ったんだと思っていたら、まだだってニラのお父様が」


 皇子は夜着の上に外套を羽織り、すぐに扉の外の護衛に声をかけた。


「ダミアンとグレンをすぐにここへ」

「兄上。心当たりのある顔ね。何かあったのね」


 セリアがこちらを睨みつけているのがわかる。


「……ああ」

「あの子はどこなの?」

「わらかない、が……」

「が?」

「いや……」

「何があったの?」

「説明より、ニラを見つけるのが先だ」


 立て続けに落ちてくる質問に答えつつ、外套の腰ひもをぐっと締めてベッド脇に転がしていた長靴に足を突っ込む。靴はひやりと足を包んだ。

 今夜は冷える。

 そう思ったら、裸で震える痩せこけた姿が脳裏によみがえった。


「ニラの居場所……」


 もしかすると、あそこかもしれない。

 そう思い至ったところに、ダミアンとグレンが駆け込んできた。ダミアンは今夜は非番で兵舎に戻っていたはずだが、寝起きという様子ではない。


「皇子、お呼びですかな」

「ニラが消えた」

「なっ……」


 グレンの問いかけに皇子が答え、ダミアンは衝撃を受けた様子ですぐさま部屋を飛び出そうとする。


「待て、ダミアン。心当たりがある。お前はここで待機を」

「俺にも心当たりが!」


 皇子の静かな言葉に刃向うように叫び返したダミアンを、グレンの手がゆっくりと押し戻した。


「今お前が行って、何と声をかけるのだ」


 その言葉にぴくりとセリアが反応した。


「どういうこと? あなた、あの子に何をしたの?」


 ダミアンが黙っていると、セリアの表情はますます険しくなった。


「何を……言ったの?」

「セリア。後で、だ」


 今にもダミアンの頭に噛み付かんとしている妹に座るように指示して寝台から自分の毛布を剥ぎ取り、グレンに後を任せて城を飛び出した。

 ヴァンは厩で気持ちよさそうに眠っていたが、鞍を手にすると嬉しそうに鼻を鳴らした。こんな時間に護衛もつけずに馬を駆るのはいつぶりだ。幼い頃に城を抜け出して以来か。

 皇子は川べりに馬を走らせた。愛馬は夜の闇にも怯えることなく皇子の気持ちを汲んでひたすらに前へ前へと進んでゆく。

 随分と手前から、目的の場所は見えていた。暗闇の中に浮かび上がるように丈の高い草が生い茂っている。その場所に視線を滑らせるが、目的の姿は見つからない。

 ヴァンから飛び降り、松明を掲げた。ぱちぱちと爆ぜる音が聞こえ、火の粉が散るのも構わず松明を振り回して辺りを照らした。

 姿は見えない。


「ニラッ」


 自分の口から飛び出した声が思っていたよりも数段切羽詰っていることに驚いた。

 どこだ、ニラ。

 傍目にもわかるほど傷ついていたのに、ひとり帰したのが悪かったのだ。

 ダミアンのせいではない。

 あの場にハミルトンを呼んだのも、ニラを部屋に入れたのも、ダミアンを止め損ねたのも、すべて自分だ。

 それも、運悪くではない。

 たぶん、心のどこかにあったのだ。漆黒の瞳の奥深くにあるものを引きずり出してみたいという身勝手で浅ましい願望が。


 ――すまない、ニラ。


 そう思った瞬間、前方で微かな呼吸音がした。

 ゆっくりと歩みをすすめて音のした岩陰に回り込むと、小さな姿は膝を抱えるようにして岩にもたれかかり、頭を垂れて震えていた。


「ニラ、ニラ」


 小さな姿のその横に膝をついてしゃがみこみ、下から顔を覗きこんだ。大きな目は今は閉じられ、口元が震えている。松明を地面に突き立て、持ってきた毛布でニラの体をそっと包み込んだ。


「ニラ」


 再び声を掛けると、長いまつげがかすかに震えた。とっさにその頬に手を伸ばす。無意識にだろう。冷えた頬が温もりに包まれた安堵からかニラが手にすり寄るような仕草を見せた。


『フリード……』


 そして続くように、


『兄さま』


 空耳かと思うほどに微かな声だった。

 しかし、縋るような声はたしかに皇子の耳の奥の薄い膜を揺らした。


「ニラ」


 もう一度呼びかけると今度はぴくりと瞼が震え、ゆっくりと開いた。

 黒い瞳が自分の姿を捉えて驚いたように揺れる。


『ああ……夢……』


 そう言ってニラは瞳に涙を溜め、空を仰いだ。

 恋人と兄の夢を見ていたのだろうか。

 目が覚めたことを悲しむような声は、皇子の心をきつく絞り上げた。


「ニラ」


 何度目になるかわからない呼びかけに、ニラがこちらを見る。


「すまなかった」


 跪いたまま頭を下げると、ニラの漆黒の瞳に自分の姿が映っていた。


「追い詰めるつもりはなかった。ハミルトンがいたあの場にそなたを通すべきではなかったし、ダミアンの言ったことも……」


 ニラは黙って(かぶり)を振った。

 気にしていないはずはない。

 涙に濡れたまつげがそれを物語っているというのに、まるで気にしていないとでも言いたげに取り繕って見せる。

 さっき部屋で見せたのと同じだ。

 きっと今までもこうだったのだ。

 ニラは決して、我々に対して普通に接しているわけではない。平然としているように見えて、本当は押し殺してきたに違いない。胸に抱える数多の感情を黒い瞳の奥に隠していたのだ。


『そなたが恐ろしい』


 唐突に放たれたウル語に驚いたのだろう。ニラは顔を上げた。

 属領とした国の言葉で語りかけるなど、これまでの自分ならありえないことだ。


『そなたはフリーデベルト王子の命を奪ったのがハミルトンだということも知っていた。それなのになぜ……』

 

 その瞬間、黒い瞳の奥で小さな炎が揺れたような気がして、皇子の心臓が奇妙に跳ねた。


『誰かを憎むことで彼らが戻るなら、いくらでも』


 目を逸らすことなくニラは言った。

 表情は恐ろしいほど落ち着いている。皇子を見つめていながら、本当はどこか他の場所を見ているような、そんな印象を受けた。


『泣き叫んで彼らが戻るなら、涙枯れるまで』


 言葉は静かに続く。


『誰かを殺すことで彼らが戻るなら、何度でも』


 彼らが戻るなら、憎むことも泣くことも、殺すことすら厭わない。


『この世のいずこかには、人知を超えた力を持つものがいると聞きます。その者に会えたとして、何を望むかと問われたら、答えはただひとつ』


 ――もとに、もどしてください。


 掠れきった声に、心を抉られるような気がした。


『儚き夢だということはわかっています。彼らは決して戻らない。私にできることは、彼らと同じ運命をたどる人を減らし、自分と同じ思いをする人をなくすことだけ』


 だから、手当てを。

 だから、薬を。


 ――ああ。


 皇子は悟った。

 ニラの言葉に感情がこもっていないように聞こえるのは、それが今考えて紡がれる言葉ではないからだ。これまで幾千回、ニラはこの言葉を胸のうちで呟いてきたのだろう。自分にそう言い聞かせて、そして――呑み込んできたのだ。

 指輪を見つけてくれた礼に願いを叶えようと言ったとき、ニラがほんのわずかに見せた迷いは、これか。


 ――もとに、もどしてください。


 何よりも願いたいたったひとつのことが、決して叶わないとわかっているから。

 打ち込まれた楔が体の中で揺れ、傷口を抉りとっていく。

 百戦練磨の皇子の背が震えた。

 魔性の女?

 ちがう、そんな生易しいものではない。

 何だこれは。この感情は。

 畏怖。

 恐怖。

 得体が知れないから恐ろしいのではない。その心の内を知ってなお、目の前の存在が恐ろしい。

 小さな体の内に、この娘はどれほどの蒼い焔を抱いているのだ。静かで目には見えず、それでいて熱い炎を。知らぬうちに焼き尽くされそうな。

 それほどの感情を押し込めるのにどれほど強靭な精神力が必要か。少なくとも自分には無理だということしか、わからなかった。


『そなたは驚くほど強い。だからこそ恐ろしい。恨み言の一つでも言われ、罵られた方がまだ容易い』


 そう言った瞬間、ニラの顔が原型を失うほどぐしゃりと崩れた。

 それはおそらくニラが初めて見せた素直な感情だった。

 初めて見る生の感情が苦しみとは。


『いいえ、いいえ……』


 強く頭を振る姿をみて、ふいに不安になる。

 こんなに細い首、簡単に折れてしまいそうだ。


『違います』

『何が違う』


 涙が小さな頬を伝うのを見て、皇子は思わず顔をしかめた。

 こんなとき、どんな言葉をかければいいのかを知らない。

 妹のセリアは幼いころから気が強く歳の離れた兄に涙を見せることなどなかったし、見せたとしてもそれは悔し涙だったから。


『強くなど……』


 そう言ってニラはもう一度首を振った。


『父が前を向いて生きろ、と。生き抜け、と。だから……でも、その父は、父は不治の病だと、モーリス様が。もう長くはないと』


 彼女の母語であるウル語ですら、あふれる思いを表すには足りぬらしい。

 間抜けにも言葉を返せぬまま、皇子はニラをじっと見つめた。すでにニラの父のことはモーリスから聞き知っていたが、途切れ途切れに言葉を紡ぐその様子を見ていると、重い現実が心をすりつぶす。

 漆黒の大きな瞳にあふれた涙がとめどなく頬を伝っていく。


『薬草も、元は父の病を治す薬ができればと……父のためにさまざまな薬草を育てて……でも、間に合わなかった。見つからなかった。父に与えられるのは痛みを和らげる薬だけで』

『そうか』

『最後の家族を……最後の、最後の……また失って……またひとりぼっちに……』


 それ以上言葉が続かず、震えながら涙をこぼすニラを、皇子は思わず抱き寄せて腕の中に囲い込んだ。皇子の胸の辺りまでしかないその小さな体をぎゅっと抱きしめる。

 腕の中でニラが驚いたように息を飲み、身を固くした。しかし、とっさの自分の行動に誰より皇子自身が驚いていた。

 どれほどそうしていただろう。

 ニラの呼吸が落ち着くのを待って皇子はゆっくりと言った。


『そなたは一人にはならない』


 何の根拠もないその言葉が慰めになるとは思えなかったが、どうにかしてこの小さな肩に背負った荷物を下ろしてやりたかった。その言葉にニラは驚いたように体を離す。


『どうして……』

『モーリスもいるし、セリアもいる。そなたの姿がないと言って私の部屋に飛び込んできたときの妹の顔を見せてやりたいくらいだ。頭を喰いちぎられるかと思った。それに、レオ、アニー、ミロたちも君に懐いているようだし……』

『そうではなく、どうしてその言葉を……』


 皇子がまくしたてるように話すのをニラがそっと遮った。

 皇子は「なぜひとりぼっちにならないのか」と問われたのだと思ったが、そうではないらしい。


 ――言葉?


 言葉がなにかおかしかったか。さきほどからウル語で話しているのはおかしいといえばおかしいのだろうが。


『……父と、同じ言葉を』


 どの言葉を指しているのかすらよくわからなくなった皇子は、返事の代わりにニラの瞳を覗いた。そこにはもう涙はなく、松明に照らされた自分の姿が映りこんでいる。

 瞳はしばらくまっすぐに皇子を見つめた後、ふっと伏せられた。

 そしてニラの顔にはにかむような笑みが浮かんだ。注視していなければ微笑んだことにすら気づかないだろうというくらいの本当にかすかな笑みだった。人に見せるための笑顔ではなく、思わず漏れてしまったような自然な反応。

 その笑顔を皇子は呆然と見つめた。

 視線を吸い寄せられ、目を逸らすことができない。

 そして次の瞬間、皇子の心を何か冷たいものが駆け抜けた。

 きっとこれがニラの素顔なのだ。フリーデベルト王子は幾度となくこの顔を見てきたに違いない。

 そのことがたまらなく不愉快だった。

 この笑顔はほかの誰にも見せたくない。

 皇子にはわかっていた。

 その感情が、名付けるなら『独占欲』というものなのだと。

 そしてその感情は、もうひとつの思いを抱かせた。

 ウラジム侵攻がなければ、ニラが大切な人々を失うことはなかった。だがそうだったなら、自分がニラと出会うことも、こうしてニラの笑顔を見ることもなかったのだ。

 残酷な思いを掻き消すように皇子はニラの頬を伝う涙を拭ってやった。


「申し訳ありません。昔から泣き虫なのです」


 むしろ、巧妙に隠された蒼い焔を一瞬でも自分に晒してくれたことに不思議な安堵を覚えていたほどだ。しかしそれは口には出さなかった。


「いや、構わない。だが体も冷えるし皆が心配している。城に戻らないか」


 ニラはこくんと頷いた。

 その様子に安心していた皇子の心はさきほどニラが見せた微かな笑みで占められていた。

 皇子は、父親を最後の家族にしてしまったのが自分だということをどこかで都合よく忘れようとしていたのだ。決して変わることのない現実を。




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