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12 英雄ハミルトン

 ――許せ、ニラ。


 皇子は目を見開いた。

 あまり感情の揺れを表に出さないグレンですら瞠目している。

 針が落ちた音でも聞こえそうなほどの沈黙が部屋を支配する中、口火を切ったのはグレンだった。それを受け、ようやく皇子も声を取り戻す。


「つまり……」

「ニラが……フリーデベルト王子の惚れた女……?」


 次いで、ダミアンがハミルトンに詰め寄った。


「確かか? 後半の部分は確かか? 聞き違いや記憶違いという可能性は?」


 ダミアンの顔は青ざめている。その鋭い問いにも、ハミルトンはダミアンではなく皇子を見つめてきた。


「あの瞬間のことは決して忘れられません」


 口の中が乾いた。

 そのくせ、唾液が絡みついて不快感を煽る。


 ――いや、最期に名前を呼んだからといって、惚れた女のそれとは限らない。


 自分に言い聞かせるように心でそう念じた。

 だが、すぐに砕かれた。

 ハミルトンがこう続けたのだ。


「王子は自分の命が途切れようとする瞬間に強い眼差しで虚空を見つめ、はっきりとした口調でその言葉を放ちました。いや、むしろ吠えたというべきかもしれません。だから……どうしても忘れられなかった」


 返す言葉が見つからなかった。言葉だけではない。感情の置き場所すら見つからない。

 最期の力を振り絞って叫ぶ名が、特別なものでないはずがない。

 皇子はゆっくりと記憶をたどった。

 戦で家族を失ったのかニラにと問うたときの一瞬の間。それに、トルト卿とニラの間に流れた奇妙な空気。トルト卿がニラの手を握るのに躊躇しているように見えたのは、絶大な支持を得ていたというアリアナへの想いからだろうか。

 重苦しい沈黙が体を縛り付け、部屋の空気を支配していた。

 どれほどの時間が経っただろう。

 部屋の外で微かな声がした。

 聞き覚えのある高い声が、何事かを護衛の兵に告げている。


「皇子。ニラ・ファヴィエが薬を届けに」


 ほどなくして響いてきた扉を警護する兵の野太い声に、皇子は身を堅くした。

 何というタイミングだ。

 素早く瞳だけを動かし、ハミルトンとダミアン、それにグレンの表情を窺った。

 狼狽、憤怒、冷静。

 さすがの老兵は涼やかな表情で「どうしますか」と声を掛けてくる。

 今の自分の顔に浮かんでいる表情は、いったいどんな言葉で表現されるのだろうか。驚愕か。それとも、恐怖か。

 一瞬の逡巡のあと、皇子は「通せ」と短く言った。

 すぐに扉が薄く開かれ、隙間からニラがするりと入って来た。部屋の空気がピリピリしていることに気づいたのだろう。大きな瞳を不安げに動かしている。

 誰も何も言わず、異常な沈黙の中に衣擦れの音が響く。ニラは戸惑った様子のまま部屋の入口近くに立って空気を読み取ろうとしていたが、ややあって控えめに声を上げた。


「あの」

「君はあのとき手当てをしてくれた……」


 ニラの声とほとんど同時にハミルトンが小さな声を上げた。その顔は表情に乏しく、首だけが少し傾げられている。


「君の名が……ニラ?」


 ハミルトンは今初めて気づいたのだろう。

 自ら討ち取った敵が最期に名を呼んだ相手と、その直後に自分の手当をした娘が同一人物だという事実に。

 皇子はその瞬間のハミルトンの表情を見て、「しまった」と思った。ハミルトンのいるこの場にニラを通すべきではなかった。


「……君は、知って……?」

 

 閉じ方を忘れたかのように薄く開かれたハミルトンの口から零れた言葉は、途中で空気に変わった。


 ――君は知っていたのか、私が彼を殺したことを。


 問いかけは最後まで続かず、何を問われたのかわからないらしいニラは、しかし異様な空気だけは感じ取った様子で戸惑いを隠さず、腕の中の紙袋をきつく抱きしめた。


「……私が憎くは?」


 ハミルトンの唐突な問いに大きな瞳が見開かれた。

 続いて、小さな口もゆっくりと開く。


「……なぜ、ですか」

「君の大切な人の命を奪ったから」


 ニラは何も言わず、まっすぐにハミルトンを見返した。

 その表情に見えるのは驚き――だけ、か? 黒く大きな瞳がかすかに潤んでいるような気がするが、目を見開いているせいで出た生理的な涙なのか、それとももっと感情的なものなのか、皇子には判断がつかなかった。


「だれの……ことですか」


 そう言ったニラの声は掠れていた。


「ナヴィニアの王子だ」


 ニラは小さく息をのんだ。

 その瞳に映し込んだ窓からの明かりがわずかに揺れ、涙が量を増したのがわかった。そのときになってようやく、皇子は確信した。

 これは生理的な涙などではない。

 そして、もはや疑う余地はなかった。

 フリーデベルト王子が死に際に叫んだ名は間違いなくこのニラの名だ。二人はおそらく特別な関係だった。

 その瞬間、名の知れぬ感情が全身を駆け抜けた。


「……君は……知って?」


 再び問いかけられたハミルトンの言葉の意味は、今度こそ通じたらしい。

 ニラは頬の辺りをきゅっと寄せてゆっくりと頷いた。

 ニラは知っていた。知っていて、ハミルトンの手当をした。

 ハミルトンがごくりと唾を飲む。


「私が……憎くはないのか」


 ハミルトンの問いに皇子はかすかな嫉心を抱いた。答えを聞くことを恐れ、自分が終ぞ投げかけることのできなかった問い。

 皇子も固唾を呑んでニラの答えを待った。

 ハミルトンが赦されるなら、あるいは自分も――

 ニラはまっすぐにハミルトンを見つめ、しばらく黙っていた。

 口がわずかに開き、その隙間から白い前歯が覗く。

 前歯は下唇をぎゅっと噛んだ。

 そして前歯から離れる瞬間に下唇がぷるりと揺れるのを、皇子はただ見つめていた。


「わかりません」


 そこでニラは一旦言葉を切り、噛み締めるように続けた。


「逆、だったかもしれないから」

「……逆?」

「剣のたった一振りで、命を奪われるのはあなただったかもしれない。命を奪ったのは、彼だったかもしれない。命を奪ったのが彼だったなら、私はきっと彼を称えたから」


 そう言った途端、ニラの右目に溜まっていた涙だけがゆっくりと頬を伝った。

 答えを受け取ったハミルトンは言葉と顔色を失っていた。


「ハミルトン」


 皇子が呼びかけると、ハミルトンはニラから遠ざかるように少し後ずさった。

 茶色の瞳が危なげに揺らいでいる。


「ハミルトン」


 もう一度語りかけるが、返答はない。

 英雄はただただ体の横で拳を握り、その拳は誰の目にも明らかなほど震えている。土気色の顔の下方、紫色の唇から息が漏れた。


「戦とは……手柄とは……」


 戦とは何だ。

 手柄とは何だ。

 英雄とは何なのだ。

 人を殺めることで得たその栄誉。

 たった一振りが別った運命と、その結末。

 輝かしい栄光は命の犠牲の上に。


「私が奪ったのは……」


 たぶん、誰もが答えを知っていた。

 命。そして、未来。

 ハミルトンの指先が細かに震え始めた。

 英雄の心は今や崖の淵にある。その淵から、一歩を踏み出させてはならない。


「ハミルトン」


 歩み寄り、肩に手を置いた。


「お前は下がれ。わざわざ呼び立ててすまなかったな」


 戦が残す傷痕はときに人の心を蝕む。

 長い間前線で軍を率いてきた皇子ですら、時に戦場の夢を見る。土埃の中で鮮血を浴び、立ち尽くす夢だ。

 もとより、あの若者は優しすぎたのだろう。フリーデベルトの最期を覚えているかと問うたとき、その表情には自分の手柄を誇るような色はひと欠片も見えず、むしろどこか苦しげだった。そこにきて王子の恋人だった人間に会い、それがあの日自分の手当てをしてくれた人間だと知ったのだ。

 ハミルトンを下がらせた後、皇子はハミルトンの上官を呼び、しばらくハミルトンの様子に注意するようにと告げた。上官は何も問わず、短く了解の意を示した。

 その間ニラは所在無げに部屋の隅に立っていた。

 部屋に残ったのがニラと皇子、ダミアン、グレンの4人になると、ダミアンが唸るような声を上げた。

 声につられたニラがダミアンの方を向く。

 ダミアンは噛みつきそうな表情でニラを睨みつけ、歯の隙間から獰猛な声を漏らした。


「泣きも、しないのか」


 ニラは肩を持ち上げて身を縮め、わずかに眉根を寄せた。さきほどこぼれた涙はすでにない。


「一体、何が目的だ」

「……目的?」


 ニラが紙袋を抱く手がぎゅっと縮まり、紙袋がガサリと乾いた音を立てた。


「なぜ素性を隠して皇子に近づいた」

「隠してなど……」

「言い忘れていたか? フリーデベルトはお前にとってその程度の存在だったのか」


 王子の名前が出た瞬間ニラの顔が歪み、直後に元に戻った。


「ダミアン、よせ」


 さっきニラの右目から一筋落ちた涙がダミアンの位置からは見えていなかったのだ。そう気づいて、ダミアンに声をかけた。

 ダミアンは、ほとんど動かないニラの表情の奥に数多の感情が蠢いていることに気づいていない。自分が気づいたのは、まばたき一つ見落とさぬほどつぶさに観察していたからだ。


「……悪魔のような女だ」


 ニラが目を見張った。


「フリーデベルトと恋人の仲を引き裂くようなことを。それなのに、二人の死後もお前だけは生きている。そして次は皇子に近づくのか? 狙いは何だ。一体何の目的で近づいた。何をする気だ」


 ナヴィニアを訪れてアリアナという女の話をその耳で聞いたせいか、ダミアンはひどく感情的だった。

 だが、それだけではない。

 おそらくダミアンも衝撃を受けているのだ。自分の大切な人間を殺した相手の手当てをし、元凶となった人間の『落し物』の処理までやってのけるこの娘を前にして。

 その心を支配するのは畏怖だ。皇子やハミルトンの心に浮かんだのと同じもの。

 これ以上ダミアンに口を開かせてはならない。


「ダミアン」


 鋭く言い、ダミアンを止めようと足を踏み出した。

 その瞬間だった。


『引き裂くようなことなんて!』


 咽の奥で詰まったような声は、悲鳴に近かった。ウル語の響きが甲高く、狩りで追い詰めた動物が放つ一声によく似ていた。


『騒ぎ立てるつもりも誰かを苦しめるつもりもなかった。静かに身を引こうとしたのに、婚約解消とその理由を大々的に国民に発表したのは王子よ! 批判が上がることなどわかりきっていたのに』


 ダミアンもウル語をある程度は理解できるが、あまりの早さに聞き取れなかったらしい。口元をねじり、何か言おうと口を開いた。


「もういい。黙れダミアン」


 皇子はダミアンの腕をつかんで制した。

 そしてニラに声を掛けた。


「ニラ」


 ニラは腕の中でくしゃくしゃになった紙袋を抱えたままガタガタと震えている。

 今度こそ、感情を殺すことに失敗したらしい。怒りによるのか悲しみによるのかわからないが、大粒の涙が瞳に膨れ、見ているこちらの胸を締め付ける。


「ニラ」


 大丈夫か、と問いかけようとしたが、自分にその問いを投げる資格があるとは思えなかった。

 ニラは目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。そして顔を大きく逸らした。


「……新たに出来た薬を……傷口の化膿や感染を防ぎ、治りを早くしてくれます」


 一瞬でも感情的になったことを後悔しているかのように、ニラの目は部屋の隅に向けられたままだ。

 ニラは立っている場所から動くことなく、抱えていた紙袋を床に置いた。

 その紙袋のすぐ近くに、ぽたりと一滴水が落ちた。

 顔をあげたニラの頬には涙が伝った跡。

 抱きしめるものを手放したせいで両手は行き場を失い、先ほどよりも大きく震えている。

 ニラは両手を合わせてぎゅっと握りしめ、こちらを見ることなく静かに去った。

 皇子はその背が思っていたよりもずっと小さいことに驚きながら見送った。見送ることしかできなかった。

 そして足音が遠ざかり、皇子は床に置かれた紙袋に視線を落とす。

 薬。

 なぜだ、ニラ。なぜ君は。

 ニラが去ったあと、心の中で小さな姿に問いかけながら木の扉をずっと見つめていると、背後でバシッと重い音がした。振り返ると、ダミアンが頭を押さえて縮こまっていた。グレンがダミアンの頭をはたいたらしい。


「お前は一体何を。あの娘を責めたところで何も変わらんぞ。アリアナという女の行方がわかるわけでもない」

「……自分の恋人を殺した人間の手当てなんて、正気の沙汰じゃない」

「一切感情を揺らすことなくそれをできるのだとしたら、たしかに正気の沙汰ではないだろう。だが、ダミアン。皆が皆、すべての感情を表に出すわけではない」


 老兵が静かに告げる。


「あの娘はお前よりずっと、感情を殺すのがうまい」


 ダミアンは頭を垂れた。

 ニラが去り際に見せた表情でダミアンにもわかっていたのだろう。自分の投げつけた言葉がひどくニラを傷つけたことを。


「俺はただ、何か狙いがあって皇子に近づいたのではと……」

「私もその可能性を一切考えなかったと言えば嘘になる。が、そのくらいのことは皇子も当然に考えておられるはずだ」


 皇子はうなずいた。

 ハミルトンの口からニラの名を聞いた瞬間、皇子はたしかに衝撃を受けた。しかし不思議なほど、ニラに対する疑いは湧かなかった。

 皇子を害そうと思えば、これまでにその機会はいくらでもあったはずだ。

 それに、取り入ろうとしているなら、あのおどおどした態度は不自然すぎる。


 ――そして何よりも。


「私はモーリスに絶対の信頼を置いている。あの男がニラを信じているなら、私が疑う理由はない」


 ダミアンもグレンも、もう何も言わなかった。

 セリアが皇子の寝室に飛び込んできてニラがまだ戻っていないと告げたのは、その日の真夜中になろうかという時刻のことだった。




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