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11 アリアナ・ダリス

 アリアナ・ダリス。

 その名は、ナヴィニアの現状を把握すべくなされた視察に同行していたダミアンからもたらされた。本来は近衛であるダミアンのすべき仕事ではないが、小競り合いの続く北側の国々との交渉のために頭脳部が駆り出され、手空きのものがほかにいなかったのだ。

 皇子、ダミアン、グレンの三人は机の上に広げられた地図を囲むように立って、ナヴィニアとウラジムの近況について話をしていた。


「トルト卿はよくやっているようです」

「そうか。ナヴィニアは不安材料も少なく、民からの不満も今のところ目に見えた形で上がって来てはいないようだ。問題はウラジムの方だな。求心力のある人間を生かしておいたのは誤りだったか……」


 ナヴィニアの隣国ウラジムでは少し前から不穏な動きが見られた。

 すぐに芽を摘んでもよいが、相手がどう出て来るか見定めるために今は泳がせてある。


「ナヴィニアのようにうまく運ぶ場合もありますから、一概にそうとも言い切れません」

「そうだな」


 思わずため息が漏れる。


「隣国同士でどうしてこうも違うものか」

「民族性の違いというのも大きいのでしょうな。ナヴィニアの人々はどちらかというと無用な争いを好まず、順応性に優れています。一方ウラジムは長い歴史を誇るという自負もあってか自国に対する誇りや執着が異常に強い。王族に対する信仰ともいうべき崇拝もその表れの一つでしょう」

「なるほど」


 誇りを持つのは決して悪いことではない。祖国を想う心はおそらくどの国の人間とて同じ。その心をどの方向に傾けるかにより、進む道が分かれる。

 今オード帝国に刃向っても得るものは何もないというのに。完膚なきまでに叩き潰されたいのか。

 そう思って皇子はため息をついた。


「求心力といえば、ナヴィニアで民が口々に『アリアナ』という名を」

「アリアナ?」


 ダミアンが口にした名が、記憶の隅の辺りをかすめた。

 どこかで聞いたことのあるような名だが。


「ナヴィニアの名門ダリス家の令嬢で、フリーデベルト王子の婚約者だった人物です。美しく聡明で心優しい女性だったとか。『陽だまりの姫』とも」


 ああ、と皇子は頷いた。

 ウラジムに侵攻する前にウラジムとナヴィニア両国の王家や周辺の権力図を探っていた。そこで名が挙がっていたのだ。

 ダリス家は古くからナヴィニア王家に仕える家柄で、前当主は早世するまで宰相をつとめていたはずだ。


 ――陽だまりの姫、ね。


「肖像画を見ましたが、雪のような白い肌に艶やかで豊かな茶色の髪をもつ、ふくよかで美しい娘でした」

「なんだその抒情的な表現は」

「すみません案内役の受け売りです」

「それで? その娘がどうした。死んだのか」


 正直言って、そんな娘の外観が美しかろうが醜かろうが興味はない。


「生死不明だそうです」


 ほとんど「死」と同義な言葉に、皇子はうなずいた。

 生死がわからないというのは何も珍しいことではない。戦の後、最優先で行われるのは遺体の埋葬だ。道のあちらこちらに散らばる躯は、放置すれば空気を穢し病の発生源になる。それを防ぐため、身元のわからぬまま合同墓地に埋葬される者は多いのだ。生死不明者の多くはそうして土へと還ってゆく。


「とにかく、話を聞いているだけで惚れてしまいそうなほどの賞賛ぶりで」

「惚れる、とな」


 グレンが珍しくからかうように口をはさんだ。


「ダミアン、お前にもそんなことがあるのか。まだひよっこだと思っていたが」

「惚れそうな、と言ったでしょう。惚れたとは言っていませんよ。まぁ、戦火が迫って皆が逃げ惑うさ中に城の方角へ駆けて行って以降消息が分からないそうですから、生きてはいないでしょうが。行く先々で名を聞くので気になってしまって」

「婚約者だった王子の身を案じて城に向かったということか」

「そうかもしれませんが、王子にはすでに棄てられていたようです」

「棄てられていた?」

「戦が始まる少し前に、王子が突然婚約の解消を発表したそうです」


 ああ、そうだ。そんな話を聞いた。攻撃の直前に。

 まさかナヴィニアがウラジムに与することはなかろうと思っていたから、ついでという程度に調べさせて頭に入れておいた情報だった。婚約を解消したとなれば特に気に留める必要もなかろうと、それ以降頭に浮かんでもこなかったが。


「婚約解消の理由は?」

「フリーデベルト王子に他に惚れた女ができたとかで」

「ありふれた話だな」


 急速に興味を失って皇子は肩を回した。


「親が決めた婚約者を棄てて惚れた相手と結婚するなんて、珍しいことではない。たしかうちにも居たな、そんな妹が」


 そう言うと、傍に控えていたグレンが苦笑する。

 妹であるセリアは他国の王族との結婚が決まっていたが、どうしてもモーリスへの想いを捨てきれず、結局婚約を破棄してモーリスを取った。

 妹に泣きつかれ、その選択を後押しして父王への話をつけたのも、そして他国との関係が崩れぬよう根回しをしたのも自分だ。当然国家間の大問題になりかねないその騒動にケリを付けたのは、妹の代わりに皇子自身がその国の姫を娶るという約束だった。

 とんだとばっちりだが、別に惚れた女がいるわけでもない。どうせ人生の大半の時間は戦場にいるか、今のようにどこかの拠点で戦争の事後処理に追われている。後継者としてはすでにレオもミロもいるし、叔父もいるから子を設けるのは必須ではない。本国に戻って妻と過ごす時間などあまり多くないだろうと思ったら、相手が誰だろうとよかった。

 今すぐにというわけではないが、自分が父の後を継ぐころには婚姻を結ぶことになるだろう。その決意がこのところ妙に揺らいでいることは、たぶん誰にも悟られていないはずだ。


「……それが、親が勝手に決めた結婚というわけではなかったようです」


 ダミアンの声にふと引き戻される。


「『アリアナ様とフリーデベルト王子の仲の良さを知っている人は皆首をかしげてたよ。あんなに想い合ってたのに。あのアリアナ様を捨てるほど惚れたんだ。よほどの女か、それとも魔性の女か。どっちにしろ骨抜きにされてたんだろ。王子が婚約の解消を発表してからというもの、アリアナ様のご様子は本当に痛ましいの一言だったよ。だから、あの日戦いの激しい城の方へ駆けて行ったのも、死ぬ覚悟だったんじゃないかって皆言うんだ。恋人に捨てられて絶望したんだろうって』だ、そうです」


 ダミアンがどこかの老婆のような口ぶりで話すので、つい耳を傾けてしまった。

 おそらく一言一句違わずに再現されているはずだ。この若者の記憶力は折り紙つきだから。


「ダリス家にはそのアリアナという娘の上に息子が二人いて、どちらもフリーデベルト王子の側近だったそうです。だからアリアナは兄の身を案じて城へ向かったのではないかという声も聞かれましたが」

「なるほど」


 いずれにせよ、これほど短い視察の期間にそんなに細かい情報が次々に挙がるほど、アリアナという女は民から慕われていたらしい。

 その女を差し置いて別の女を選ぶ。

 王子がよほどの愚か者だったのか。

 別の女がアリアナを凌駕するほどの女だったのか。

 『よほどの女か、それとも魔性の女か』

 ダミアンが先ほど口にしたどちらにせよ、背筋がうすら寒くなる女だ。


「王子が惚れた女の方の消息はわかっているのか」

「それが、誰もその女を知らないのです」

「……知らない?」

「王子は此度(こたび)の戦が終息したらその女との婚約を正式に発表するとだけ述べて、相手の名を決して明かさなかったそうです」

「一体何のために」

「アリアナ・ダリスの人気を考えれば、その女に非難が集中することを避けたかったのかもしれません。戦の間は傍で庇ってやることができませんからね」

「なるほど」


 そう言って皇子は考え込んだ。

 今のところナヴィニアの情勢は落ち着いているし、何か動きがあっても小さな火種ならトルト卿が抑えるだろう。我々オード軍のためではなく、これ以上祖国に犠牲者を増やさぬために。

 だが、その惚れた女が誰かということはトルト卿すら知らない可能性がある。となれば、自分の恋人である王子を殺されて我々を恨んでいる人間が、誰にも知られることなくその懐刀を研ぎ澄ましているかもしれないのか。


「……気になりますか?」

「その惚れた女の情報を集められるか」

「そうおっしゃるだろうと思いました」


 ダミアンは誇らしげに身を反らす。そういうところが若造扱いされる由縁だというのに、この男はそれに気づいていないらしい。


「すでに調べました」

「それで?」

「フリーデベルトの側近ならば知っているかもしれないということでした、が……」

「が?」

「全員の戦死が確認されています」


 皇子はため息をついた。

 あれだけ胸を張った割に、成果はなしか。

 先回りして調べていたのは評価すべきだろうが、これでは素直に褒めてやれない。


「フリーデベルト王子の側近中の側近はダリス兄弟。アリアナの兄二人です。そのどちらも王子とともに戦死。その他の側近たちもほとんどが王のウラジムへ派兵に同行して皆戦死しています。皇子に近しい人間で唯一生死不明だったのが、アリアナ・ダリスです」

「その娘にしたって、消息不明ということはもうほとんど死亡が確定したようなものだろう」

「残る側近はトルト卿ですが……」

「知っているとしても口を開くことはないだろうな。それに、こちらがその女の情報を持っていることをトルト卿には晒したくない」


 ダミアンもそう思っていたのだろう。静かにうなずいた。


「結局手がかりは皆無か」


 その「惚れた女」が一人で何かできるとは思えない。それなのに、なぜか妙な胸騒ぎに襲われた。

 その時ある人の名前が頭に浮かんだのは、ただの偶然だった。

 皇子はふと思ったのだ。

 王子の最期を知る人物なら何か知っているのではないか、と。


「ハミルトンを呼べ」


 すぐに現れたハミルトンは、緊張した面持ちで「お呼びでしょうか」と言った。皇子の部屋に呼びつけられることなどそうそうあるものではないから、何事かと思ったのだろう。


「其方、ナヴィニアのフリーデベルト王子の最期に立ち会ったと言っていたな」

 

 立ち会ったというか、王子を討ち取った英雄だ。怪我を負って後方に戻ったところをニラが手当てしたという、その人物。


「はい」

「そのとき、王子のそばに誰かいたか」

「騎士団の人間が数人おりましたが、皆その場で……」


 ハミルトンはそれ以上言わなかった。


「女は? 王子のそばにいたか」


 皇子の問いにハミルトンは訝しげに眉根を寄せた。


「いいえ。いませんが……」


 ハミルトンは口ごもった。


「なんだ」

「王子が事切れる直前に、一言だけ……」

「何と?」

「私にはウル語はわかりませんが……」

「音をおぼえているか?」

「はい」

「何と言ったのだ」

「フィアトルデ、ニラ……と」


 皇子は息をのんだ。

 フィアトル・デ

 その意味が頭を駆け抜けた。

 そして、グレンがゆっくりとオード語訳を口にした。


「許せ、ニラ」




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