10 ナヴィニアからの使者
「ナヴィニアのトルト卿がお見えです」
執務室に入ってきた兵がそう言ったのを聞いて、目の前にいたニラの肩がぴくりと持ち上がった。育てた薬草から作ったのだという薬を持ってちょうど執務室に来たところだったのだ。
「通してくれ」
低い声で皇子がそう指示を飛ばすと、兵は一礼して扉の向こうに消え、入れ替わりに中年の男が入ってきた。
「お久しぶりです、エドゥアール皇子」
「トルト卿、わざわざご足労いただき申し訳ない」
今はオード帝国の属領となった、ニラの故郷ナヴィニア。トルト卿はその古参の騎士だが、有能で人望が厚かったことからナヴィニア再建の内渉面を任せてあった。
トルト卿は若輩者の自分を相手に丁寧に頭を下げ、ゆっくりと顔を上げた。そして皇子の真横に立つニラの姿に目を留めた。
「ニラ、ナヴィニアのトルト卿だ。二人はもしかして面識があるかな」
トルト卿の視線に気づいた皇子がそう言うと、その問いには答えずにニラがすぐさまトルト卿に歩み寄って細い手を差し出した。
「ニラ・ファヴィエと申します。ベルナール・ファヴィエの娘でございます、トルト卿」
トルト卿は差し出された手をじっと見つめ、ややあって両手で握った。
「ニラ様。お会いできて嬉しく存じます」
「同じナヴィニアの出身だから、知り合いかと思ったのだが」
二人の間に流れた奇妙によそよそしい空気を訝しく思い、皇子は眉根を寄せた。
「幼い頃にお会いしたことがあります。覚えておいでですか?」
ニラの問いかけに対し、トルト卿は静かにうなずいた。
「もちろんです。お元気そうで何よりでした」
「ええ、トルト卿こそ」
「今はこちらで何を……?」
「この城で落し物を処理する係を務めております」
「よく働いてくれる」
皇子が付け足すと、トルト卿は目を細めて頷いた。
「そうでしたか。いずれお父上にもお会いしたい」
「ええ……父も、トルト卿にお会いできたらどんなにか喜ぶと思います」
「今日は時間がないが、近いうちに必ず参りましょう」
トルト卿は何気なしに言う。
だが皇子には、その言葉にニラが喉を震わせたのが分かった。
『すぐに、すぐに来てください。父にはもうあまり時間が……』
突然ウル語で綴られた言葉は、トルト卿をひどく驚かせたらしい。とっさにトルト卿もウル語を発する。
『時間……というと?』
『不治の病です。どうか、どうかお早く……』
二人の会話を黙って聞いていた皇子は胸の奥がつきりと痛むのを感じた。
「……近いうちにトルト卿がそなたの父を訪ねられるよう手配しよう。今日にでも手配できればよいが、あいにく今日は少し都合が悪い」
皇子がそういうと、ニラはゆっくりと皇子の方を向き、そして頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いや、礼には及ばない」
「……私はこれで失礼いたします。皇子、その薬、毎食後に一包をお飲みください」
「なに? これは私に?」
てっきり傷に効く薬か何かだろうと思っていたので、飲めと言われるとは思わなかった。
ええ、とニラは頷く。
「数日前からお腹の具合を壊されているようでしたから」
なぜそれを……
問おうとして、皇子は思わず苦笑した。
ニラからしてみればもはや慣れたことなのかもしれないが、見知った人間に排せつ物を処理されているというのも妙な気分だ。
その二人の様子をトルト卿がじっと見つめていることに、皇子は気づいていた。
自分とこの娘の関係は、この騎士にはどう映ったのだろうか。そして、そこにどのような感情を抱いたか。
ニラの背中を見送っているトルト卿の心の内を探ろうと注意深く観察したが、この壮年の騎士の表情には不自然なほど動きがない。
「あの者の幼い頃をよく知っているのか」
「いいえ。父上のベルナール・ファヴィエとは若い頃から共に戦った仲ですが、娘御にお会いする機会はそれほどありませんでしたから。あの子にご興味が?」
そう言った口調が鋭いように感じるのは気のせいか。
「どうだろうな……不思議な娘だ、と思っている。かつての敵国に仕えるのに嫌な顔をするでもなく、自身の仕事を全うしている」
そう言ってから皇子は、ああそうか、この男もそうだったな、と思った。
トルト卿だって、かつての敵国の手先のような立場で働いているのだ。変な動きをしないよう、オード帝国から送り込まれた数多の文官たちとともに。
すべて廃して一から新しい基盤を作り上げるよりも、元の実力者をうまく利用した方がよほど簡単に属領を治められるということを経験で知っているからだ。新たな領土の治め方として別段特殊な方法と言うわけでもない。反旗を翻さないようにだけ気を配っていればよいと、これまではそう思って来た。彼らがオード帝国に対してどんな感情を抱いているかを気に掛けるのは、反乱を起こさないかどうかという一点に尽きた。
それなのに今自分は、この男の心の内をなぜか知りたくなった。
自分のことが憎くはないか、と。
「これ以上犠牲を増やすような愚かな真似はいたしません」
皇子が何かを問う前に、トルト卿が静かにそう言った。
自分の内心を読まれたことに驚き、皇子ははっと顔を上げた。
「私の願いは故郷に再びの平和が戻ること。それ以上でも、それ以下でもありませぬ」
皇子は黙ってうなずいた。
いや、うなずかざるを得なかった。
騎士の眼には強い光が宿り、それ以上の質問を許さない。
それでも、自分の職務は全うするとはっきりと言った。
この男は嘘をつかない。
なぜかそんな気がした。
トルト卿が去ったあと、皇子は机の上に足を投げ出してぼんやりとしていた。
「お疲れですかな、皇子」
グレンに声を掛けられ、けだるくそちらに目をやる。
「疲れたといえば疲れたが、別にいつもと変わりない」
「それにしては随分と深いため息をついておられましたが」
「自分には到底理解し得ぬ人間に対して抱くこの感情に、名はあるのだろうか」
「畏怖、では」
「なるほど、畏怖か」
そう言って皇子はくつりと笑いをもらした。
――自分が畏れを?
言ったのがグレンでなければ腹を立てたに違いない。しかし、この老師に言われては反論する気は起きない。
「私はあの娘のことが恐ろしいのか」
口に出してみると、その事実は案外すんなりと心の底に落ち着いた。
そうか、恐れていたのだ。
感情の読めぬ黒い瞳と、あまり動かぬ表情を。
「ニラとか言う、あの娘のことですか?」
「そうだ」
「何を恐れておいでなのですか」
「理解できぬ。得体が知れぬ、というべきか。トルト卿よりなお恐ろしい」
「そうですか」
皇子は机の上に置いてあった薬包を一つ、グレンに投げた。
「ニラが、これを飲めと」
「……なんですと?」
グレンは眉根を寄せる。
当然だろう。毒かもしれぬという考えに至らない方がおかしい。
立場上、飲食物には人一倍気を使う。普段と違うルートで手に入ったものは決して口にしないのが通常だ。
ましてや薬。食べ物や飲み水に混ぜ込むよりよほど効果の強い粉末なのだ。
――だが。
「さっき捕まえた鼠にやってみたが、別段変化はなかった。哀れ、鼠は数日便秘になるかもしれんがな」
「何のお薬なのですか?」
「腹下しに効くようだ。ここ数日腹の調子が悪かったのでな」
ああ、と合点がいったようにグレンが頷く。
ニラの仕事だからこそわかる、皇子の腹の調子。
「侮れない娘ですな」
「奇妙な気分だ」
ニラが侮れない娘なのは間違いない。
だが、敵意を向けられている様子はない。
むしろ腹下しに効く薬をくれるあたり、好意とはいかないまでも人として体調を案ずる程度には思ってくれているようだ。
だが、それすらも怖い。
こんな感覚は初めてだ。
始末に負えない感情を胸にしまいこみ、皇子は一つ伸びをした。
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ニラが渡した薬のおかげで皇子の腹下しはすぐに回復し、時を同じくして城に出された「排せつの前に下に人がいないかきちんと穴を覗くように」とのお達しに、グレンはひとり忍び笑いをもらした。




