1 プロローグ
――しまった。
頭に鈍い衝撃を受けた瞬間、ニラはひどく後悔していた。
いつも細心の注意を払い、不意を突かれることなどなかったのに。
目の前の山の中にキラリと光る何かを見つけて、ほんの、ほんの一瞬気が緩んだのだ。その一瞬のせいで、ニラは頭上から降ってきた落し物をもろに頭に浴びていた。
頭に受けた衝撃もさることながら、心に受けた衝撃の方が格段に大きかった。ニラは動くことさえできずにじっと立ち尽くした。フードをかぶっていたおかげで最悪の事態は免れたとはいえ、狭い空間に立ち込めた悪臭は容赦なく小さな体を包み込み、思考を奪っていく。
――いったいなぜ、こんなことに。
数ヶ月前の出来事がニラの脳裏によみがえった。
あれは、ひどく冷え込んだ日だった。
「急病人だ! 開けてくれ!」
夕刻に一日の仕事を終えて帰り支度をしていると、ドンドンと乱暴に扉を叩く音が響いた。あわてて玄関へ駆けつけると、雇い主のモーリスが扉を内鍵を開けようとしているところだった。
「患者のようだ。私が診るから君はもう長屋に帰っていいよ。疲れているだろう」
優しい言葉に感謝しつつも、ニラは首を振った。
「いいえ。私もお手伝いします」
ニラはすぐに腕捲りをし、薄暗い玄関に明かりを灯した。火がゆらゆらと揺れ、ニラとモーリスの影が壁に大きく照らし出される。
モーリスが扉を外側に押し開けると、数人の男たちが患者を抱きかかえるようにして入ってきた。
その瞬間、男たちと共に流れ込んだ外の冷気がニラの足元をすっと掛けぬけた。
ニラは悲鳴とも奇声ともつかない声を上げ、患者の胸に掻きついた。
「お父さんっ」
一年だ。
ニラと父がここへ来て寄り添うように暮らし始めて、もうすぐ一年になる。
それなのに、あの人は今まで一度だって城での仕事の内容をニラに明かしたことは無かった。そしてきっと、これから先も明かす気はなかったのだろう。病に倒れて働けない父の代わりになれば、と城へ来てみて初めて父の仕事の内容を知ったのだ。
今はベッドに横たわる父の姿を思いだして、ニラは唇を噛んだ。
彼は一体どれほどの屈辱を感じながらこの仕事を続けてきたのだろう。もう決して若くはない体に鞭打ち、ひどく単調できつい作業を来る日も来る日も繰り返して。
一年もの間、ニラは何も知らされていなかった。
それが彼の思いやりだとわからないほど莫迦ではない。だが、その思いやりは今ニラを突き刺す後悔となって襲い掛かっている。
ふいに、目の奥がツンとして視界がぼやけた。
――ニラは泣き虫だな。
かつて大切な人が笑いながら頭を撫でてくれた記憶が脳のどこかにチラついた。
ニラはそれを振り払うように頭を大きく振り、フードの上に降り積もった落し物を払い落とした。頭の上からずり落ちたそれが地面に当たってベチョリと湿っぽい音を立てる。
その音が、ニラに現実を思い知らせた。
泣いても何も変わらない。ニラが置かれている状況は、何一つ変わることはない。涙を流したところで、ただしょっぱい水が頬を伝い口に流れ込んでくるだけ。涙を拭いてくれる人も、頭を撫でてくれる優しい手も、くだらないことを言って笑わせてくれる声も、もう何もかもが失われてしまった。
すべてが変わってしまったのだから。
『泣いてはダメ』
小さな部屋の中で声が反響し、四方からニラを包み込んだ。
『泣いてはダメだったら』
この一年、何度もこうして自分を叱咤してきた。きっと、これからもそうしていくのだろう。
気の遠くなるような時間の向こうに明るい未来はあるのだろうか。
ニラは再び頭を強く振った。
『今はただ、できることをするだけ』
とりあえず今は、くさい山の中に見つけたきらりと光るものを救出しなくては。
それはもしかすると、すべての変化の前触れだったのかもしれない。