招かざる客
──今日はこれくらいでいいだろう。──
その男は、手にした獲物を手に、辺りを確認する。
既に、日は傾き始めている。
──遅くなると、あいつが過剰な心配をするからな。──
愛する妻の顔を思い浮かべ、帰りの道を急ぐ。
その風貌は、30歳前後と思われ、ややくすんだ長め金髪を後ろで結んでいる。
無精髭を生やし、左目に傷のある隻眼の為、端正な顔とは言えないが、野性味溢れ、整った輪郭は、見る人によっては、『いい男』と言う筈である。
彼の狩猟の腕は素晴らしく、『狙った獲物は逃さない』と言う言葉を、体現している。
生気に溢れ、透き通るような蒼色をした彼の右目は、遠くの獲物を目ざとく見つける事が出来るようだ。
そして、音も無く忍び寄り、獲物に逃げる隙を与えない。
愛用の小型の弓で必ず仕留める様は、正に神業と呼べる代物である。
──この腕が、こんな時に役立つとは思って無かったがな。──
彼が狩った獲物は、彼ら夫婦だけでなく、村人達の胃袋を満たす事にも役立っている。
今のところ、村人達の期待を裏切る事はないだろう。
以前、その期待に応えようと頑張り過ぎて、帰りが遅くなった時、彼の妻は、泣きながら彼を責めた事があった。
「どうして、こんなに遅くなったの?」
「私が、どれだけ心配したと思ってるの?」
「あなたが無事でいないと、意味がないのよ!」
──俺をそう責めるな。今日は、日暮れ前には帰るから。──
脳裏に浮かんだ妻の泣き顔に心が痛み、苦笑いを浮かべながら、帰りの道を急いだ。
その途中、彼は、道端に倒れている者を発見する。
行商人の姿をした男だった。
まだ、息はある。
「どうかしましたか?」
彼は、声を掛けてみる。
「み…水…、水を…一杯…。」
彼は、腰に下げていた水筒から、行商人の男に、水を分け与える。
「親切にありがとうございます。お蔭で、助かりました。」
息を整えた行商人の男は、お礼を述べる。
ここら辺りに、行商人が来るのは珍しい。
彼は、多少、訝しがる。
「ここら辺りに、金になりそうな客はいませんよ。この道を下って行けば、多少、大きな町がありますから、そちらに向かってはどうでしょう?」
「いやあ、面目ありません。その町を目指していたのですが、途中、道に迷いまして。水筒も空になり、行き倒れていたんです。」
「途中には川もありますから、其処で、水を汲んで行くのが宜しいでしょう。町にも、今日中には着ける筈ですから。」
「何から何まで、親切にありがとうございます。親切な御方のお名前をお伺いしても、宜しいですか?」
「…。アミュレット…と申します。」
「ありがとうございました、アミュレットさん。」
「では、お気を付けて。」
『アミュレット』と名乗った男は、行商人の男の顔を見ながら、何処かで会った事がある気がして仕方なかった。
しかし、どうしても思い出せない。
帰り道を急ぎながら、言いようのない不安を抱える。
──思い出せないという事は、重要な人間ではないという事だろう。──
そう思いながら、言いようのない不安を打ち消そうとした。
一方、行商人の方は…。
「見つけたぞ、ルフレ・イスマイル。それで、人相を変えたつもりか?余りに浅はかだな、『風のルフレ』。」
この男の方は、密かにほくそ笑んでいた。
世捨て人として過ごした五年の歳月は、その能力を退化させるのに充分過ぎた。
暗殺鬼として恐れられていた頃に身に付けていた、特殊とも言える能力は、衰えてしまっているようだ。
******
──駄目だ…。行くな…。俺を…、俺を置いて行かないでくれ!──
「……た、あなた!アミュレット!ルフレ!」
「…!夢…か…。」
「大丈夫なの?随分、うなされていたけど。」
それは、考えたくもない夢だった。
詳しい内容は思い出せないが、自分の様子を心配そうに伺う愛しい女性が、何処か遠くへ行ってしまう夢だった。
その手にかけた者が夢に出て来て、彼を苦しめる事は、これまでも度々あった。
しかし、愛しい女性が連れ去られる夢は、初めてであった。
「何処へも行くなよ、クラリス。」
そう言いながら、愛しい女性の膝に顔を埋める。
「急にどうしたの?ルフレったら、甘えん坊な子供みたいだよ。心配しなくても、私は此処に居るでしょ?あなたの傍に、ずっと居るから安心して。」
彼女は、夫の髪を愛しそうに撫でながら、優しく言い含める。
「ああ…、そうだな…。それから、俺は、アミュレットと言う名前だ。ルフレと言う名前は捨てたのだぞ。」
「あら?それを言うなら、あなただって、さっきから私が捨てた名前を呼び続けているわよ。私は、マリア。妻の名前を間違えるなんて、最低な事よ。」
マリア(クラリス)はアミュレット(ルフレ)に、冗談めかした言葉を言いながら、優しく微笑み掛ける。
妻の優しい笑顔を見ると、夫の方は、抑えきれない衝動を感じた。
彼女は、歳を重ねた分だけ妖艶さを増している。
出会った頃は、まだ子供っぽさを残していたが、その面影は既にない。
一度、ばっさりと切ったその黒髪は、再び伸ばし始めており、薄暗い月明かりに照らし出された姿は、この世の者とは思えない美しさを漂わせている。
夫は、体制を直し、その抑えきれない衝動を妻にぶつける。
妻の唇に自身の唇を重ね、彼女を押し倒した。
妻の方は、抵抗する事はなく、寧ろ積極的にそれを受け入れる。
そして、夫の舌が、耳や首筋に這って来ると、甘い吐息を漏らした。
二人だけの夜は長く、夜明けまでは、まだ遠い。
「居心地が良くて、この村に居着く形になってしまったな…。この分では、大陸に辿り着くまでには、お互い、歳を取り過ぎてしまう…。」
荒い息を整えながら、夫が呟く。
「居心地が良ければ、それでいいじゃない…。大陸行きは、あくまで、漠然とした目的だったんだから…。安住の地が見つかったなら、それでいい…。あなたと二人…、出来ればもう一人加えて、幸せに過ごせれば、何処でも…。」
妻の方も息を整えて起き上がり、脱ぎ捨ててあった衣服を羽織る。
季節は秋を迎え、間もなく、この村に来てから五度目の冬を迎える。
この地に居着くという彼らの判断は、過酷な運命をもたらす事に、二人共、まだ気付いていない。
******
この地方の秋は短く、あっという間に冬はやって来る。
厳しい冬を迎える前に、早めに冬支度を済ませなければならない。
その日、ルフレは、早めに村を出た。
冬を乗り切る為に、今から、準備をして置かなければならない事が多々ある。
帰りが遅くなると心配する者がいる為、朝早く出るしかない。
その心配をする者自身は、朝から体調不良を訴え、伏せっている。
それを残して出掛けるのは、気が進まなかったが、生きる為には仕方がない。
「ちょっと横になっていれば大丈夫だから。」と言う、妻の言葉を信用するしかない。
クラリスの事が気懸かりで、注意力が散漫だった事もあるが、ルフレの衰えは顕著だった。
毎日のように扱っている弓だけは、上達しているが、周りの只ならぬ気配に気付くのが遅れた。
五年前のルフレであれば、もっと早く気付けたはずである。
しかし、今のルフレが、その僅かな殺気に気付いたのは、その相手が目の前に現れてからだった。
──十人…か。少々、不味い…か?──
自分を取り囲んでいる相手の人数を確認し、手持ちの武器を確認する。
手持ちの武器は、動物なら仕留める事が出来る弓矢と、加工用の小型の短刀のみ。
──逃げるだけなら何とかなるさ。しかし、歳は取りたくないものだ。癪だから、長い間、実戦を離れた所為にしておこう。俺はまだ、ぎりぎり20代の筈だしな。──
少し余裕もあったルフレだったが、相手がごろつき風情ではない事に気付き、その余裕が消える。
──何処の正規兵だ?何故、俺を狙う?──
正規兵に狙われるような心当たりは、ルフレには多々あり過ぎる。
しかし、何故、今なのだ、という思いである。
そして、見覚えのある紋章を見た時には、無事では済まない可能性を覚悟した。
──ヴェルハイムの近衛隊!──
「久し振りだな、ルフレ・イスマイル。挨拶無しで居なくなるのは、冷た過ぎやしないか?」
「フレデリク皇太子!…殿下…。」
近衛隊の後ろから現れた、かつての主の姿を見たルフレは、覚悟を決めるしか無かった。
──すまない、クラリス…。生きて戻れないかも知れない…。──
招かざる客の姿を見たルフレは、死を覚悟し、愛する妻に詫びた。
死線を何度も潜り抜けて来たルフレだが、事態は絶望的だった。
それでも、何とか活路を見出そうとするのは、悲しい性か、無駄な足掻きか。
それとも、愛する妻の笑顔を守る為であろうか?