感情の摩天楼(5)
魔物の砦を攻め落としたという報告は、すぐにゲルトラント全域に知れ渡った。表通りの街の住人は大いに盛り上がり、凱旋した騎士団員たちには歓喜と賞賛の拍手が惜しみなく送られた。
だがそこにスラムの人間が混じることは許されなかった。社会的弱者でありゲルトラントの闇の象徴とも言うべき彼らは、「臭い物に蓋」の原理で一人残らず貧民街に送られ、坂道となっている出入り口には、いつもは居ない筈の武装した監視役がつけられていた。
その貧民街の中を、ミーアは慣れた足取りで進んで行っていた。凱旋パレード中の貧民街への出入りは好ましい物ではなかったが、彼女は自らの身分を利用し、強引に中に入っていったのだった。
鎧の擦れる音を残しながら早足で駆け抜ける彼女の顔は、熱を持ったように赤かった。
やがてリックの家の前で立ち止まると、ノックもせずにドアを開けて中に入り、居間に踏み込む。
「ミーア、どうしたんだい?」
驚いたように椅子から立ち上がったリックの身体を、何も言わずに正面から抱きしめる。
「え、え?」
「……」
突然のことに狼狽えるリックを尻目に、ミーアはその痩せ細った体を一心に抱きしめ続ける。やがてリックも彼女の背中に手を回し、あやすようにその背中をさする。鎧越しではあったが、その温もりはミーアにはしっかりと伝わっていた。
「……落ち着いた?」
「うん……」
そう弱弱しく呟きながら、ミーアがリックから離れる。ミーアに椅子に座るよう促してから自分も元居た場所に腰を下ろし、リックが一つ咳払いをして彼女に尋ねた。
「それで、どうかしたの?」
「いや、その、なんていうか……」
「……僕に話せない感じの悩みなのかな?」
「そんなことはない!むしろ、聞いてほしいくらいだ……」
しどろもどろになりながら、ゆっくりとミーアが口を開く。
「その……お前が欲しくなった」
「へ?」
「いや、違う!違うんだ!決して下品な意味ではない!いや、そうしたいのもあるけど、いや、そうじゃなくて――とにかく違うんだ!」
「わかった、わかったから落ち着いて。順番に話を聞かせてよ、ね?」
顔を真っ赤にして必死の形相で訴えるミーアをリックが務めて落ち着かせる。
「何があったの?」
「その、魔物の砦を落とした時にさ……見たんだ」
「見た、って、何を?」
「……魔物と人間が、キスしてたの。遊びじゃない本気のキス」
「……嘘……」
「見せつけられた」
腕枕の上からミーアがテーブルに突っ伏す。リックは信じられないというように目を白黒させていたが、ミーアはその体勢のまま、構わずに話を続けた。
「その時にさ、戦う時はいつも抑えつけてた気持ちが、一気に噴き出してきてさ……いてもたってもいられなくなって、それで……」
「それって、どういう気持ちなの?」
「言わせる気……?」
「言ってくれなきゃわからないよ」
頭を上げ、真顔で尋ねるリックをじっと見つめながら言った。
「お前が好きだってこと」
「ああ……」
「お前と離れたくない。すぐにでも飛んで帰って、お前と一緒の時間を作りたい……って、お前と離れている時はいつも、いつもそう思っているんだ……言わせないでよ」
いつもそう思ってくれているのか。耳まで真っ赤にしているミーアを見やりながら、リックは嬉しくなった。そしてそれと同時にリックは、世間には欠片も見せないミーアの本当の姿を改めてそこに見やった。彼女は女神ではない。自分に恋してくれている、一人の儚く可愛い少女なのだ。
そんなことを考えながら少しばかり頬を緩めて、リックがミーアに言った。
「それって、その二人を見て羨ましくなったってこと?」
「……たぶん、そうなのかもしれない。そうやって私は我慢してるのに、あいつらはそんな私の前であ、あんなことしたんだからな……でも」
「?」
「いいな、って思ったのも本当なんだけど……怖かったって気持ちもあったんだ」
「怖かった?」
小さく頷いてミーアが言った。
「あの二人は本気で恋をしていたんだよ。魔物と人間がだぞ?ありえない、ありえないと思っていても、目の前にはその光景が広がってる」
「……」
「今までずっと、魔物は敵だと思っていた。人間とは相容れない存在だと思っていた。なのに、あいつらは、私が嫉妬するほどに深く愛し合っていたんだ」
テーブルから体を離し、両腕で自分を抱きながら話を続ける。
「自分の中の価値観が壊れていくような感覚を味わった。自分が自分でなくなるような、凄い嫌な感じだった。それで怖くなって、居てもたってもいられなくなって――」
そこでミーアが顔を上げる。彼女の縋るような視線を前にして、リックはそれから目を逸らすことが出来なかった。
「お前が欲しくなった。お前に縋りたくなった。私がいなくなっても、お前はいつもそこにいてくれる。だから――」
「……不安だったんだね」
「……うん。改めて分かった。私には、お前が必要なんだ」
ミーアが頷きながら言う。それは決して捨てることのできない心からの欲望。どれだけ自分を殺して国と民を守る騎士団長になりきろうとも、その声が途切れることは決して無かった。
鉄の仮面をかなぐり捨て、弱弱しい一人の少女の顔で彼女が言った。
「頭の中が、お前に会いたい気持ちでいっぱいになった。キーラを探すために来たって言うのに、それさえも頭の中からかなぐり捨てていた。気持ちが全部お前の方に飛んでいた。ただお前のことだけを考えていたんだ。自分の気持ちを落ち着かせるためだけにな……ひどい話だよ」
「それってやっぱり、僕のことが重りになってるのかな?僕がいつまでもここにいるから……」
「馬鹿な事を言うな!お前は悪くない、すぐお前に頼ろうとする私の心が弱いのが悪いんだ!」
「そうじゃないよ!僕だって、君に頼られるのは嫌じゃないよ。むしろどんどん頼ってきてほしい。だから言いたいことはそうじゃなくて、僕がいつまでもここにいるから、君を傍で支えてやれないのが悪いんじゃないかってことなんだ!」
「……ど、どういう意味だ?」
リックの気迫に気圧されるようにしてミーアが言った。そして勢いよく椅子から立ち上がり、ミーアをじっと見つめながらリックが答えた。
「僕も君を守りたい。僕もミィちゃんと一緒に行く」
「……どういう意味だ?」
「言葉通りだよ」
「騎士団になる気か?」
「そこまで高望みはしないよ。スラムの人間が騎士団に入れないのはわかってるでしょ?」
「ああ、そうだったな」
貧民街の人間は騎士団にはなれない。それだけではない。表通りに出て買い物をすることも、平民や貴族と話をすることも出来ない。ゲルトラントにとって、スラムは基本的に『存在しない物』として扱われているのだ。
「じゃあ、どうする気なんだ?」
「うん。ええっとね……」
暫くの逡巡のあと、意を決してリックが言った。
「この国を出るんだ」
「なんだと?」
「この国を出て、二人でキィちゃんを探しに行くんだよ」
「この国を、出る……」
ミーアはその言葉を、何度も心の中で反芻した。
この国を、出る。
この腐った国から足を洗い、仮面を外し、愛する彼と二人、同じ目的に向かって旅をする。それはミーアにとって、とても――魅力的なものに聞こえた。