感情の摩天楼(4)
そしてその言葉を聞き入れたのか、やがてワーウルフがその手を離し、そして次の瞬間には半泣きの彼を全力で抱きしめていた。
「……でも、ありがと。私のこと、心配して来てくれたんだよね?」
「……だって、ご主人様がいなくなったら、僕……」
「ごめん。ごめんね。本当はもっと早く帰りたかったんだけど、ちょっと用が出来ちゃって」
「もういいんです。ご主人様が無事なら、それで」
気づけばワーウルフは尻尾を激しく左右に振りながら、タクトの頭を愛おしそうに撫でていた。タクトも目を閉じ、その暖かい感覚に身を委ねている。
「それよりさ、そのご主人様っていう呼び方やめてよ。私たちもうすぐ結婚するんだから」
「だって、僕にとってはご主人様はご主人様なんですから、いきなり変えろって言われても……」
「むー、生意気な奴め。変えてくれないんならこうしてやるっ」
「ちょ、ちょっとやめて!くすぐるの止めて!おなか弱いから、ひ、ひはははは!」
そして恋人がするように、ここが戦場ということも忘れて二人で惚気はじめる。それを呆然と見ていたミーアは、その無防備な背中に剣を突き立てるのも忘れ、子供の頃に自分とリックが無邪気にじゃれ合っていたのを思い出していた。
やがて背後の視線に気づいたのかワーウルフがタクトから離れ、上気した顔でミーアに言った。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと羽目を外し過ぎちゃった」
「……その少年はなんだ?奴隷か?」
「はあ?馬鹿じゃないの?恋人に決まってるじゃない。コ・イ・ビ・ト♪」
辛うじて吐き出したミーアの質問に、タクトの首に抱きつきながら自信満々にワーウルフが答える。それはミーアの予想した通りの回答であり、己の価値観に楔を打ち込む最悪の回答であった。それを全力で拒絶するようにミーアが叫ぶ。
「嘘をつくな!どうせ貴様らがその子を洗脳して、いいように玩具にしているだけなんだろう!」
「玩具だなんて失礼ね。私たちは本気で愛し合っているって言うのに……どうしたら信じてくれるのかしら」
そう言いながら顎に手を当てて考え込むワーウルフは隙だらけであった。だがその隙を突くことは、何故かミーアにはできなかった。自分が取り戻したかった、リックと共に歩むはずだった本当の日常の光景がそこにあったからだ。それに傷をつけることは出来なかった。
そんなミーアを尻目に、やがて顎から手を離し、何か閃いたように瞳を輝かせながらワーウルフが言った。
「じゃあ、とっておきの証拠を見せてあげる」
そう言ってタクトの顎を指で軽く持ち上げ、ゆっくりと顔を近づける。
人間と魔物の影が重なる。甘い感触を楽しむように、重ね合わせた唇を離すことなく顔全体を動かし続ける。
「ん……っ!」
「くちゅ……ちゅっ……あむ……」
その不意打ちに面食らい強張っていたタクトの顔も、その全身に広がる快楽の波を受け、次第に眉根を下げ蕩けたものへと変わっていく。そしてやがて目を閉じ、唇を通して自分からも愛情を惜しみなく相手に伝える。
「ちゅっ、ぷあ……はあっ」
やがて名残惜しそうな表情を浮かべて、ワーウルフの方から顔を離していく。離れた唇を繋ぐように、一筋の唾液が糸を引いた。
「はあっ、はあっ……も、もっと……」
「ふう……今はこれでおしまい。続きはベッドでね」
「――!……はい」
顔を真っ赤にしてしおらしく頷くタクトの頬を優しくなでながら、満足そうな表情でミーアに向き直る。
「な……な……」
衝撃のあまり、碌に口も聞けなくなっていた。『鋼鉄の女神』はもうそこにはいなかった。
「お前、お前はいったい、今何を……」
「キスよ」
「き、きす、キスだと?」
「しっかり見ててくれた?私たちの本気」
そう言って信じられないというふうに口をだらしなく開けて立ち尽くすミーアを見やりながら、タクトを背中に抱えて再び四つん這いになる。
「じゃ。私たちはこれからやることがあるから。失礼するわね」
「ま、まて――」
ミーアが叫ぶよりも早く、ワーウルフが周囲の壁を蹴って砦の外壁に掴まり、そのまま外へと消えていく。消えると同時に、制圧を終えた騎士団員が大挙してミーアの元へと駆け寄っていった。
「ミーア様!ご無事で!」
「あ、ああ。大丈夫、大丈夫だ」
団員の言葉によって意識を取り戻したミーアは、乱れた心を必死で取り繕い、顔に再び鉄の仮面をつけた。別の一人が話しかけてくる時には、既にそれは完成していた。
「して、彼奴はどちらに?」
「……すまない、逃がしてしまった」
「なんと、ミーア様の手から逃れるとは!」
「忌々しい魔物め!」
そう口々に罵りながら、周りの団員たちは魔物への憎悪をこれでもかと言わんばかりにぶつけていたが、ミーアの心は素直にその流れに乗って行けるほど穏やかではなかった。
あの時、二人は本気で愛し合っていた。
愛があった。
騎士に徹するためにミーアが禁じていたもの、心の奥底に封じ込めていた物が、再び鎌首をもたげはじめる。
私だって――。
表情を見せない鋼鉄の仮面の裏で、誤魔化し続けていた自分の心が悲鳴を上げ始めていた。
いや――もう限界だった。