感情の摩天楼(2)
マーキスの言った通り、騎士団は基本的に脱退自由だった。それは国が国民に見せる数少ない自由の形の一つだったが、それを行使する者は殆どいなかった。騎士団に与えられる破格の待遇と、自らが神の戦士であるという自負が、彼らを雁字搦めにしていたのだ。
だがミーアは騎士団と心中するつもりはなかった。キーラを助け出したらすぐにでも抜けるつもりだった。彼女の本当の人生はあの貧民街に――いや、リックとキーラの傍にこそ存在し、その頃に帰るためならば、どんな傷も嘘も黙って飲み込んでいこうと決めたのだった。
そして千を超える腐った現実と屍を踏み越えて、ミーア・ルジャノームは今、騎士団と共に魔物たちの砦の一つを攻め落としていた。
「進め!進め!神の栄光は我らの元にある!恐れるな!」
砦の正門前。門は固く閉ざされていた。
剣を振りかざし、ミーアが声高に叫ぶ。その穢れ一つない白銀の鎧と凛々しく引き締められた白磁の美貌の組み合わせは、正に外界に降り立った奇跡。いかなる彫刻職人も仕上げることのできないであろう、完成された美であった。
そして美しく整えられた口から発せられる女神の号令とばかりに鋭く轟くその叫びは、神と同じくらいに彼女に心酔していた騎士団員を大いに奮い立たせた。
しかしそんな宗教的エクスタシーの渦に陥り、狂ったように門にぶち当たる彼らの中で、ミーアは一人冷め切っていた。
実際、ミーアが鼓舞するまでもなく、この砦は既に陥落寸前だった。今でこそ魔物たちの姿が見えないが、それまで全く魔物たちの抵抗があったわけではない。しかしその攻撃はどこか散発的で、人間を傷つけるのを躊躇っているようにも見えた。
何を馬鹿な。そこまで考えてそう頭を振っていると、突如前方から悲鳴が上がった。
「ミーア様!上です!」
団員の一人がそう叫んだ時、既にミーアは大きく後ろに飛び退いていた。そしてそのミーアの顔を掠めるようにして、漆黒の剣がそれまで彼女がいた所に叩きつけられる。
「ちっ、外しちゃったか」
そう吐き捨ててミーアと対峙したのは、兜はつけず、漆黒の袖無しの鎧に身を包んだ一人の女の魔物だった。
鋭い爪を持つ太い三本の指を具えた足は逆関節状に折れ曲がり、二の腕に手甲をつけた手には逞しく節くれだった五本の指と鋭い爪を持っていた。腰からふさふさの尻尾を生やし、その顔は黒ずんだ鼻以外は人間の特徴を色濃く残し、頭頂部についた一対の犬のような耳はピンと伸びきっていた。
がっかりしたように肩を落とし、襲い掛かって来た魔物が言った。
「あーあ。隙をつけばうまく行くと思ったんだけどなあ。流石は隊長さんだね」
「貴様、ワーウルフか。一人でここに来た度胸は認めよう。だが――」
そう言ってミーアが剣を構え直す。ワーウルフの周囲を取り囲んだ団員たちもまた一斉に剣を抜き、ワーウルフに突きつける。
「――生きて帰れると思っているのか?」
絶体絶命。もはや逃げ道は無かった。だがそのワーウルフはニヤリと笑いながら、その場の全ての人間に聞こえるように言った。
「もちろん。フィアンセが待ってるんでね」
「殺れ――!」
ミーアが叫びかけた時、既にワーウルフは動いていた。
膝を曲げて高々とジャンプし、団員の一人を踏み台にして包囲を軽々と飛び越える。そして着地するや否や剣を背中の鞘に納めて四つん這いになり、そのまま垂直にそそり立つ門に爪を突き立てて走り抜け、砦の中へと消えていった。
「奴は私が追う。お前たちは砦を落とせ!」
「了解!」
最後の一押しとばかりに団員が一斉に門にぶち当たり、内側の閂を強引にへし折る。そして打ち開かれた砦の中を、ミーアは真っ先に駆け抜けていった。