レッドアイは夜に舞う
――その『赤き瞳』は、狙った獲物を逃がさない。
『レッドアイは夜に舞う』/未来屋 環
初めて訪れる街の夜は、どこか不穏さが付き纏う。
美緒はコツコツと踵の音を鳴らしながら夜道を歩いた。
雨で黒く濡れた道路をハイヒールの赤が彩り、その色に少しだけ勇気付けられる。
やがて裏路地に潜む控えめな看板を見付け、美緒はほっと胸を撫で下ろした。
刻んできた歴史の重さを感じさせる木製の扉は、まるで別の世界への入口をそっと隠しているようだ。
右手だけではびくともせず、全身の体重をかけたところでようやくその扉は鎖していたその先の道を開いた。
「――いらっしゃいませ」
店の奥から落ち着いた女性の声がして、美緒は吸い寄せられるように視線を向ける。
カウンターの中には、首元に黒い蝶ネクタイを付けた女性が立っていた。
バーテンダー然とした彼女に対し、美緒は小さく会釈をしながら店内の様子を窺う。
見渡す限り他の客は一人もいないようだ。
それがこの店の常なのか、それともたまたまなのか――判断しかねながらも美緒は入口に近いカウンターの席に腰を下ろす。
バーテンダーの後ろには様々な酒の瓶が並び、いわゆる普通のバーと何ら変わらない場所に見えた。
店内はほのかなオレンジ色の灯りでぼやりと照らされ、その薄暗さが夜の社交場の雰囲気を醸し出している。
「お客様、何を飲まれますか?」
童顔のバーテンダーはそんな空間から浮いていてもおかしくないはずだが、その落ち着いた所作のお蔭か違和感なく溶け込んでいた。
黒目がちな瞳にまっすぐ見つめられ、美緒は意を決して口を開く。
「レッドアイを、ください――二杯」
緊張で声が震えないよう、一言ずつ、音を置くように。
その言葉を受け、バーテンダーは「かしこまりました」と頷く。
首元で切り揃えられた黒髪を揺らし店の奥に消える彼女を眺めながら、美緒はここに来るきっかけとなった噂話を頭の中で反芻した。
――曰く、この店でレッドアイを二杯オーダーした時『怪盗レッドアイ』が姿を現すと。
どこの誰が流した噂なのかはわからない。
しかし、それは或る日SNSのタイムラインに載って美緒の元へと辿り着いた。
最初は半信半疑だったが、調べ始めるとその怪盗に纏わる情報が次々と出てくる。
どんなに厳重な警戒網もかいくぐり、目当てのものを確実に手に入れる怪盗――それは金品や美術品に留まらず、いわゆる『思い出の品』とされるような希少価値のないものに至るまで――そして、特筆すべきはその彼もしくは彼女が盗みの依頼を受け付けているということだった。
とはいえ、インターネット上を流れている情報なのだから、真偽の程は定かではない。
それでも、美緒にはそんな信憑性の低い噂にも縋らずにはいられない事情があった。
「――それで、私に何かご用かな? お嬢さん」
思考の海に沈んでいた美緒は、その台詞で一気に現実へと引き揚げられる。
慌てて声のした方を見ると、カウンターの奥に一人の男が座っていた。
その男は薄い色のサングラスをかけ、不敵な笑みを浮かべている。
黒い髪には緩やかなウェーブがかかっており、ダークグレーのスーツに深い赤のネクタイがよく映えた。
いつの間に――美緒が驚きに固まっていると、バーテンダーが「お待たせいたしました、レッドアイです」と美緒と男の前にそれぞれグラスを置いた。
グラスのおよそ八割は赤い液体で満たされ、その上を白くきめ細かい泡が埋め尽くしている。
男の「ツキコ、いつもありがとう」という言葉に、ツキコと呼ばれたバーテンダーは涼しい顔で頷いた。
「……あの、あなたが『怪盗レッドアイ』?」
恐る恐る放った美緒の問いかけは、男の微笑に受け止められる。
「いかにも。そう尋ねるということは仕事の依頼かな、お嬢さん――いや、浅月美緒さん」
いきなり名前を言い当てられ、思わず「えっ?」と声が洩れた。
美緒の困惑に応えるように男が口を開く。
「二十代にして多くの入賞経験がある稀代の新鋭画家――知らないはずはない。さぁ、乾杯をしよう」
「……あの、怪盗さん?」
「さすがにその呼び方はまずいな。ロシェ、と呼んでほしい」
ロシェ――彼の名前だろうか。
その口から紡がれる日本語にまったく違和感はないが、確かに彫りの深い顔立ちは少し日本人離れしているような気がする。
美緒は「では、ロシェさん」と言い直した。
「本当に依頼を受けていただけるんでしょうか。その――あなたにお願いしたいことが」
「その判断は依頼内容と報酬の話を聞いてからだ。乾杯」
ちん、とグラスを合わせたあとでロシェはグラスを煽る。
ごくりと喉を鳴らしうまそうに飲む様子を見て、美緒も恐る恐る口を付けた。
あまり酒に強くはないが、ここで機嫌を損ねれば依頼を受けてもらえないかも知れない――美緒は覚悟を決め、その液体をこくりと一口飲み込む。
瞬間、想像していた苦みはなく心地良い酸味が口の中に広がった。
驚いてもう一口飲むと、ほのかな炭酸が舌の上を爽やかに滑り、すっきりとした後味が残る。
「さて、お味はいかがかな」
視線を向けると、ロシェのグラスの中身は相応に減っていた。
「あの、おいしいです……これはどういうお酒なんですか?」
「なんだ、知らずに頼んだのか。レッドアイはビールをトマトジュースで割ったカクテルだよ」
美緒はグラスを見つめ直す。
ビールは苦いものだとばかり思い込んでいて、トマトジュースを入れるだけでこんなにも飲みやすくなるとは知らなかった。
「気に入ったならよかった。今日は自分のペースで楽しむといい」
ロシェの言葉に誘われるように、美緒はおずおずとグラスを傾けた。
『――美緒』
暗闇の中、どこからか響いた声に美緒は顔を上げる。
視線の先にぼやりと光る一帯があり、そこに美緒の面影がある女性が立っていた。
懐かしさと再会の嬉しさで、思わず美緒の頬が緩む。
「お母さん……!」
母子家庭で育った美緒にとって、母はかけがえのない大切な存在だ。
決して楽な生活ではなかったが、母と二人でいられればそれでよかった。
たまたま絵画展に出した絵が専門家の目に留まり、絵を描いて暮らすのに不自由ない収入を得られた美緒は、ようやく母に恩返しができると思っていたのだ。
――しかしその矢先、長年の過労が祟ったのか職場で倒れた母はそのまま帰らぬ人となった。
母が亡くなったあとの手続きは、母の弟である叔父の協力を得て進めた。
どこかの会社の重役を務めているという叔父とはこれまで大して関わりがなかったが、美緒が画家として名を上げてからは懇意にしていると母から聞いていた。
社会経験の少ない美緒にとって、叔父のサポートは純粋にありがたかったが――
「お母さん、私……どうしたらいいのかわからない」
美緒の両目から涙がぽろぽろとこぼれる。
事件が起こったのは、母の四十九日を終えて叔父の家に立ち寄った時のことだった。
トイレを借りようと廊下に出た美緒は、通りすがりに見かけた部屋の中に自分の絵――それも、そこにあるはずのないものが置かれていることに気付いた。
それはかつて美緒が描いた母の絵だった。
いつかの母の日にプレゼントしたそれを母はいたく気に入っており、それ故に彼女が眠る棺に入れて母と共に天に昇ったはずだった。
部屋に戻ったあとで叔父を問い詰めると、彼は悪びれもせず「君の描いた絵なら燃やすより取っておいた方が価値があるだろう」と言い返してくる。
それなら自宅に持ち帰るといえば、様々な理屈をつけて返そうとしない。
叔父の家はセキュリティサービスを契約しており、美緒が隠れて持ち出すこともできそうになかった。
「あの絵は、お母さんのために描いたものなの……だから、お母さんと同じ場所に送り出したかったのに」
そう声を絞り出すと、暗闇の中に立つ母が優しく微笑む。
懐かしい笑顔をもっと近くで見たくて、美緒は一歩踏み出した。
しかし、母との距離は一向に縮まる気配を見せない。
焦る美緒に対し、母は笑顔のまま背を向けてどこかへ立ち去ろうとする。
「待って、どこに行くの? 私を置いて行かないで!」
必死で母に手を伸ばしたその瞬間、白い光が弾けた。
「お母さん――」
自分の声で目が覚める。
視界に入った木目のテーブルと空のグラスに意識が追い付かない。
ゆっくり頭を起こすと、そこはバーの店内だった。
「あれ……私――」
「そろそろ閉店のお時間です」
響いた声に振り返るとツキコが立っている。
彼女は無表情でがらんとした店内の掃除をしていた。
「あの、ロシェさんはどちらに」
「もう帰りました」
「えっ……」
まさか、酔いつぶれてしまったのか――自身の醜態に言葉を失っていると、ツキコが近付いてきて「どうぞ」と赤いハンカチと手鏡を差し出してくる。
戸惑いながら手鏡を見て、そこで初めて自分の頬に涙の跡があることに気付いた。
「……すみません」
夢の内容は朧気にしか覚えていないが、寝るだけでなく涙さえ見せていたなんて――美緒は恥ずかしさで小さくなりながら頬にハンカチを当てる。
そして手鏡で首を映した際、首筋に見慣れない傷があることに気付いた。
ぽつりぽつりと二つ、まるで何かに咬まれた痕のような――
「『報酬はいただいた、気を付けて帰りたまえ』」
ツキコの声が響き、美緒が顔を上げる。
彼女は変わらぬ表情でこちらを見ていた。
「――ロシェ様からの伝言です。あと、お会計をお願いできますか」
「え、あ――はい」
わけがわからないまま美緒は慌てて財布を取り出す。
一体何杯飲んだのかとひやひやしたが、ツキコに告げられた値段は非常に良心的だった。
会計を済ませた美緒は狐につままれたような心持ちで立ち上がる。
飲みすぎたせいか一瞬貧血のようにくらりとするが、これ以上店に迷惑をかけるわけにもいかないのでぐっと足を踏ん張った。
扉を開くと、外の世界は何事もなかったかのように彼女を迎え入れる。
雨上がりの匂いに抱かれながら、美緒は駅に向かって一歩踏み出した。
「――ということで、お客様は無事に帰られました」
美緒がバーを出た二時間後、同じビルの別のフロアに一人の男が帰り着く。
男――ロシェは黒いマントをハンガーにかけながら、ツキコの報告を聞いていた。
「わかった。色々と対応ありがとう、ツキコ」
「ロシェ様もお仕事お疲れ様でした。今日の首尾はいかがでしたか」
ツキコの言葉にロシェが「いつも通りだ」と笑みを返す。
「今日のターゲットは金庫と監視カメラに頼りきっていたからな。楽勝だった」
そしてサングラスを外そうとしたところで「あぁ、そうだ」と思い出したように続けた。
「ツキコにおみやげだ。金持ちなだけあって上等なものを蓄えていたから少しいただいてきたよ」
「! よろしいのですか?」
「あぁ、こちらに来なさい」
手招きに従いおずおずと近付いたツキコを、ロシェは優しく抱き留める。
冷静だった彼女の表情がふっと緩み、頬が赤く染まった。
そして――その身体はじわりと赤い光を放つ。
「……ツキコ、今日も一日お疲れ様」
燃えるようにゆらゆらと揺れながら、ツキコのシルエットは次第に形を変え、最終的にはロシェの腕の中にすっぽりと収まる大きさに落ち着いた。
じきに光が弱まっていき、そこにいたのは毛並みの美しい一匹の黒猫。
「ほら、召し上がれ」
黒猫に変化したツキコを床に下ろし、ロシェはポケットから出した餌を与える。
夢中で食べるその頭をロシェは優しく撫でた。
***
明くる夜、美緒は自宅のアトリエで絵を描いていた。
昨夜の出来事は現実だったのだろうか――ツキコからロシェの伝言は受け取ったものの、酔った状態で自分がきちんと依頼内容を説明できたのか自信がない。
不安になりながら絵筆を走らせていたが、なかなか集中できず美緒はため息を吐いた。
「――筆に迷いがある、なんてプロに言ったら失礼かな」
いきなり背後から響いた声に、思わず息を呑む。
振り返ると部屋の入口にロシェが立っていた。
「ロシェさん! 何故ここに?」
「驚かせて申し訳ない。私としたことがターゲットの家の場所を聞き忘れていたものでね」
「あ……そうですよね、すみません」
慌てて叔父の家の住所をメモに書き留めている間に、黒いマントを纏ったロシェが室内に入ってくる。
書き終えたメモを渡そうと顔を上げると、ロシェは美緒の隣で興味深そうに絵を眺めていた。
「美しいタッチだ。今回の絵はまだ観ていないが、確かに燃やしてしまうのは些か勿体ない気もするな」
ロシェの視線が描きかけの絵から美緒の瞳に移る。
間近で見るその顔は彫刻のように整っていて、美緒はどきりとした。
ロシェがサングラスを外し、美緒に手渡す。
その隠れていた瞳は赤く燃えており、美緒はその赤に魅入られるような錯覚に陥った。
「すぐに戻る――待っていてくれ」
耳元で囁かれた瞬間、すぐそこにいたはずのロシェが姿を消す。
我に返った美緒が室内を見回しても、ロシェはどこにもいなかった。
そして夜は更ける。
その男は湧き上がる怒りを発散させようと、自室でウイスキーを飲んでいた。
その視線の先には、姪である美緒の母――男にとっての姉を描いた絵が無造作に置かれている。
『なんでこの絵がここにあるんですか?』
脳裡を美緒の声が過った。
せっかく葬儀会社と交渉して棺から絵を取り出したというのに、不注意で美緒に見られてしまったのだ。
案の定美緒は反発し、危うく絵を取り返されるところだった。
思い出すだけで苛立ちが募り、男はウイスキーをロックグラスに注ぎ足す。
元々姉とは折り合いが悪かった。
何かと要領の悪かった姉は、夫を事故で亡くしたあとシングルマザーとして苦しい生活を送っていたようだが、出世競争を勝ち抜き成功した自分とは関係のない話だと思っていた。
そう――美緒が画家として名を馳せるまでは。
美緒は母である平凡な姉とは違い才能にあふれていた。
そんな姉が亡くなった今、頼れる親族は自分しかいない。
その機を逃さず手を差し伸べてやり、信頼を勝ち得ることですべて上手くいくはずだったのに……。
「ったく……絵を描く以外能がない癖に、一丁前に逆らいやがって!」
そう吐き捨て、ウイスキーを煽った瞬間
「にゃあ」
場違いな高音が耳に飛び込み、男は口に含んだウイスキーを噴き出しそうになる。
それは確かに猫の鳴き声だった。
男に猫を飼った覚えはなく、また妻と子どもは妻の実家に泊まりがけで出かけているので、彼らの消し忘れたTVの音声ということもないだろう。
「……何だ?」
薄気味悪さを感じながら、男はグラスをテーブルの上に置いた。
室内に特段変わった様子はない。
少し飲み過ぎたか――酔い覚ましの水を取りに行こうと男が立ち上がる。
「――こんな雑な扱いしかできないとは、やはりおまえはこの絵の持ち主に相応しくないようだな」
突然耳元で響いた低い声に、男の心臓はばくんと鳴った。
「誰だ!?」
反射的に叫ぶが、その声は虚しく室内に響く。
見回しても誰もおらず、部屋の入口から顔を出して廊下も確認するが、やはりそこに人の気配はなかった。
「一体何なんだ……!」
怒りを滲ませながら振り返ったその瞬間、視界に見知らぬ男が入り「わあぁ!」と悲鳴を上げる。
その黒いマントを纏った男は絵を手に持ち、まじまじと見つめながら「確かにこれは美しい」と呟いた。
その足元には黒猫が寄り添っており、答えるように「にゃあ」と鳴く。
「おい、おまえ何者だ! その絵に触るんじゃない!」
咄嗟に近くのゴルフバッグからドライバーを引き抜くと、黒いマントの男が鋭い眼差しでこちらを見据えた。
その赤い瞳に言いようのない威圧感を覚える。
「私は怪盗レッドアイ、こちらの絵をいただきに来た」
「……か、怪盗!?」
ドラマや漫画の世界ならいざ知らず、現実にそんなものが存在するはずがない。
しかしそれが本当なら、やはりこの絵にはそれなりの価値があるということか。
それにしてもセキュリティサービスは何をしているのか、不法侵入者がいるのに警告音一つ鳴らず誰も来る気配がない。
これは即刻苦情を入れなければ――。
ドライバーを握り締めながらそんなことをぐるぐる考えていると、赤い瞳が不快そうに細められた。
「――つまらん男だ。ツキコ、他にこいつが企んでいるものがないか確認してきてくれ」
怪盗の指示を受けた黒猫が駆け出し、男の傍をすり抜ける。
「待て! 勝手なことをするな!」
男が黒猫にドライバーを振り下ろそうとした瞬間、右腕がぴくりとも動かなくなった。
いつの間にか近付いてきた怪盗が、男の右腕をつかんでいる。
「私の目の前でツキコに手を出そうとはいい度胸だな」
赤い瞳がぎらりと光り、つかまれた右腕がみしりと音を立てた。
あまりの強さに思わず「ひっ」と悲鳴が洩れる。
「ま、待ってくれ! その絵は持って行っていいから! だから助けてくれ!」
怪盗は厳しい眼差しを緩めなかったが、必死に助けを請う男の様子にため息を吐いた。
「――情けない」
そう呟くと怪盗は手を放し、男に背を向け窓辺へと歩き出す。
その無防備な仕種を確認した瞬間、すぐさま男は痛む右手で怪盗にドライバーを振りかぶった。
盗みに入られた上に傷害の被害にも遭っているのだ、仮に殴ったとしても正当防衛と見做され、お咎めなしで済むだろう。
男はにやりと口元を歪める。
――喰らえ! このコソ泥が!!
今度こそ振り下ろされたドライバーは、確かに怪盗の後頭部を捉えた――はずだった。
しかし、結果としてドライバーは虚しく空を切り、男は驚きに目を見開く。
「何!?」
ありえない――確かにそこにいたはずの怪盗が、まるで霧のように消えてしまったのだ。
目の前で起こった現象を理解できず固まっていると、耳元で「随分と乱暴だな」と低い声が響いた。
「『私が人間なら』当たりどころが悪ければ死んでいたぞ。やはり棺を漁るような輩は不作法だな」
冷や汗が頬を伝う。
横に顔を向けると、赤い瞳に静かな怒りを宿した怪盗が立っていた。
その表情は氷のように冷たく、そして――口元にはおよそ人間のものとは思えない牙が覗いている。
「あまり美味くはなさそうだが仕方ない――おしおきの時間だ」
次の瞬間首筋に激痛が走り――そこで男の意識はぶつんと途切れた。
それから一時間程が経過した頃、美緒は窓から夜空を眺めていた。
昨日は雨が降ったりもしたが、今日は晴天で満月がよく見える。
『すぐに戻る――待っていてくれ』
ロシェの言葉がよみがえり、手元のサングラスに視線を落とす。
彼は本当に叔父の家に行ったのだろうか――依頼をした立場ではあるが、その無事が気になり胸が騒いだ。
そして小さくため息を吐いた瞬間、背後からするりと風が吹く。
「――なんだ、ゆっくりしてくれていてよかったのに」
「にゃあ」
背中をかすめた声に慌てて振り返ると、そこにはロシェとその足にぴたりと寄り添う黒猫がいた。
「ロシェさん! ご無事でしたか」
「あぁ、問題ない――ほら、ご依頼の品だ」
そう言って差し出されたのは――待ち侘びた母の笑顔。
母の視線は左斜め下を向き、優しい笑みを浮かべている。
母の趣味は読書だった。
家事と仕事の合間にできたわずかな時間を、図書館で借りてきた本を読んで過ごす――その時のいつにも増した穏やかな雰囲気と嬉しそうな母の笑顔が、美緒はたまらなく好きだったのだ。
「……お母さん」
もう一度出逢うことのできたその笑顔を前に、美緒の視界がじわりと揺れる。
肩を震わせる美緒に「さすが浅月美緒、美しい作品だ」とロシェは優しい声をかけた。
「これをどうするかは君が決めればいい。当初の予定通り燃やしてもいいし、そのまま君が持っていても構わない――あの男が君に関わることはもうないだろう」
「え?」
意味がわからず問い返す美緒に、ロシェは肩を竦めてみせる。
「あの男、君が世間に明るくないのをいいことに、君の作品群を勝手に売りさばこうと色々画策していたようだ。これ以上勝手なことをしないよう手は打っておいたが、ああいう輩に食い物にされないためには君自身が強くならなければ」
その言葉に、美緒ははっとさせられた。
確かに自分は絵を描いてばかりで、生活を送る上での様々なことを母に助けてもらうばかりだった。
そんな自分を見透かされたからこそ、叔父に付け入られてしまったのだろう。
美緒は一つ息を吐き、そして目の前のロシェを改めて見つめ直す。
こちらを見る赤い瞳には優しさの色が宿り、まるで自分に勇気をくれるかのようだった。
「――はい、私強くなります。絵だけじゃなく、きちんと独り立ちできるように――私をここまで育ててくれた母を心配させないためにも」
そう宣言すると、ロシェが穏やかに微笑んでみせる。
「それでは、今夜はここで失礼しよう」
「本当にありがとうございました。あの、報酬は……」
「伝えたはずだよ、もう前払いでいただいている。とてもまろやかで上質な味だった」
そう言いながらロシェが美緒の手からサングラスを抜き取り、赤い瞳を隠した。
足元にいた黒猫が肩に飛び乗るのを待ち、マントの裾を翻しながら窓辺まで歩いていく。
そして最後にこちらを一瞥し、口を開いた。
「――また機会があれば、一緒にレッドアイを飲もう」
そのままロシェは開かれた窓から夜空へと飛び出す。
「ロシェさん!?」
慌てて窓に駆け寄ると、都会の夜を背景に飛び去っていく黒い影が見えた。
マントで風を受けながら夜空を飛ぶその姿は幻想的で、煌々と輝く満月と共に美緒の心に刻み込まれる。
いつかこれを絵に残したい――美緒の心の中に、じわりと赤い炎が灯った。
「ロシェさん……いえ、怪盗レッドアイ。またいつか」
小さく呟くと、穏やかな風が美緒の頬を撫でる。
室内に視線を戻すと、絵の中で母が穏やかに微笑んでいた。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
今回は「怪盗」というテーマで書いてみたのですが、私の中で「怪盗」といえばやはりルパン三世!
ルパンの素晴らしさは世界観からキャラクターから台詞回しに至るまで、とにかくオシャレであることだと思います。
ハードボイルドな雰囲気をイメージしながら、少し異端なバックグラウンドの怪盗を「オシャレになりますように……!」と書いてみました。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
以上、あとがきまでお読みくださりありがとうございました。




