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変貌

ドアの向こうで、ガタガタと金属が擦れ合う音が響く。

隆が鍵穴にスペアキーを差し込もうとしている。

その「カチャカチャ」という日常的な音が、今の薫には、処刑台の階段を上る足音のように聞こえていた。

(……やめろ。来るな。そのまっとうな手で、俺の部屋を、俺の汚泥まいにちを掻き回さないでくれ)

心の一部分では、まだそんな弱々しい拒絶が渦を巻いている。

だが、その叫びは、内側から溢れ出してきた「何か」に、音もなく飲み込まれていった。

喉が、熱い。

ただ熱いのではない。誰かに喉を直接、灼熱の蜜で撫で回されているような、嘔吐感と高揚感が入り混じった熱だ。

「……っ……、ぅあ……」

口から漏れたのは、呻き声ではない。

それは、震えるような低い共鳴。

古びたバイオリンの弦が、不吉な和音を奏でるような、人間の声帯からはおよそ出ないはずの「音」だった。

その音を自分の耳で聞いた瞬間、薫の脳内で、二十五年前のあの「雨」の記憶が、色を変えた。

冷たくて、惨めで、臭くて、死にたくなったあの記憶。

それが、なぜか今は、ひどく甘美な「舞台装置」のように感じられる。

(……あの時、みんな俺を見てたな。……笑ってた。……俺のダンスじゃなくて、俺の破滅を見てた)

脳の奥の神経が、一本ずつ丁寧に焼き切られ、別の回路へと繋ぎ直されていく感覚。

自尊心が死に、その死体の上に、どす黒い「承認欲求」が毒々しい花を咲かせる。

「恥ずかしい」が「見せつけたい」へ。

「隠したい」が「暴きたい」へ。

感情の極性が、磁石が反転するように、暴力的な速度で書き換えられていく。

ふと、床に落ちたままのスマートフォンに目が止まった。

画面の中では、まだ無名の配信者が、薫のアパートの壁を叩いて「突撃」を煽っている。

かつての薫なら、ここで窓を割り、彼らに掴みかかって心中しただろう。

だが今の薫が感じたのは、乾いた笑いだった。

(……そうか。お前ら、そんなに俺が見たいのか。……いいよ。見せてやる。……お前らの安い想像力が、一瞬で消し飛ぶような、地獄の特等席を)

その思考は、もはや「日影薫」のものではなかった。

それは、獲物を待ち構える捕食者の、静かな愉悦。

「薫! 隆だぞ! 開けるからな、いいな!」

ついに、鍵が回った。

デッドボルトが外れる「ガチリ」という音が、薫の耳には、舞台の幕が上がるベルの音に聞こえた。

瞬間、薫の視界が真っ赤に染まる。

いや、それは赤ではない。網膜の裏側で、サキュバスの象徴たる「情欲の紫」が爆発したのだ。

(ああ……、やっと、鳴り(・・)始めた)

耳の奥で、無数の「声」が聞こえる。

それはこれまでに自分を馬鹿にした連中の嘲笑であり、隆の憐れみの言葉であり、そして――これから自分の虜になるであろう、何十万という「家畜」たちの歓喜の叫びだ。

精神は、すでに人間の境界を越えていた。

四十数年かけて積み上げた「男」としての意識が、一滴の雫となって、魔性の深淵へとポチャンと落ちて消えた。

残されたのは、真っ白なキャンバス。

そこへ、サキュバスの本能という名の筆が、おぞましくも美しい色彩を塗りたくっていく。

「……ふ、……ふふふ……」

薫は、顔を覆っていた手を、ゆっくりと、優雅に下ろした。

指の隙間から覗く目は、もはや光を失った魚のそれではない。

闇の中で自ら発光する、猛禽の、あるいは魔物の、吸い込まれるような瞳。

ドアが、ゆっくりと開かれる。

夕暮れのオレンジ色の光が、埃の舞う部屋の中に一条の筋を作った。

その光の先に、隆の影が落ちる。

隆はまだ、そこにいるのが「幼なじみの哀れな45歳の友人」だと思い込んでいる。

だが、隆が次に目にするのは、この世の物理法則が悲鳴を上げ、一人の男の肉体が、どろどろとした「欲望の泥」へと融解し始める、地獄の始まりだった。

薫の唇が、ゆっくりと弧を描く。

その唇から、一筋の銀色の唾液がこぼれ落ちた。

「……いらっしゃい、隆。……最高の『ショー』を、特等席で見せてあげるよ」

その声は、もはや男のものでも、女のものでもない。

魂を直接掴み、深淵へと引きずり込む、悪魔の誘惑そのものだった。

「薫……? お前、なんだその目は……」

ドアを開けた隆の声が、情けなく震えた。

逆光の中に立つ隆の目には、まだ、床に座り込む薄汚れた中年男の姿が見えているはずだ。だが、彼の本能が警鐘を鳴らしていた。目の前にいるのは、かつて一緒にダンスのステップを練習した親友などではない。

薫の身体から、パチパチと嫌な音が鳴り始めた。

それは、乾燥した木々が燃える音ではない。骨が、筋肉が、細胞の一つひとつが、既存の構造を維持できずに「内側から破裂」している音だ。

「……ぁ……っ……ああああ……ッ!!」

薫の口から、粘り気のある叫びが漏れる。

その瞬間、彼の背中から、どす黒い紫の蒸気が噴き出した。

それは汗が蒸発したものではない。四十五年間、彼の中に澱んでいた絶望、後悔、そして異常なまでの「執着」が、魔力となって溢れ出しているのだ。

バキ、という鈍い音とともに、薫の背骨が不自然な角度に反り返った。

脂ぎったスウェットの背中を突き破り、中から二つの「異物」が突き出す。

それは、濡れた鳥の羽のようでもあり、蝙蝠の膜のようでもある――粘液に塗れた、禍々しくも美しいサキュバスの翼だった。

「ひっ……、あ……あ…………」

隆は腰を抜かし、尻餅をついた。

だが、その目は釘付けになっていた。恐ろしいはずなのに、視線を逸らすことができない。

その時、床に転がっていたスマートフォンが、奇跡的な角度でその光景を捉えた。

薫の部屋の窓の外で突撃を企てていた配信者のカメラではない。薫の部屋の中で、勝手に起動したカメラが、その「冒涜的な進化」を全世界へ垂れ流し始めたのだ。

『なんだこれ!? 特撮か?』

『男の体が……溶けてる……?』

『待て、変な汁が出てきたぞ。……でも、なんか、綺麗だ……』

カメラ越しに、数万人の視線が薫を貫く。

その「視線」こそが、サキュバスの苗床にとって最高の肥料となった。

薫の肉体が、どろりと崩れた。

筋肉は一度液体のように融解し、骨は細く、しなやかなラインへと再編されていく。

中年特有のたるんだ腹は、瑞々しい曲線を描く腰つきへと引き締まり、無精髭に覆われた顎のラインは、カミソリで切り出したような鋭くも可憐なV字へと削ぎ落とされる。

「……あ……、……はぁ……、……っ」

薫だったものの口から、一筋の銀色の唾液がこぼれる。

だが、その唇は、もはや四十男のそれではない。

熟れた果実のように赤く、触れれば熱を帯びた蜜が溢れ出しそうな、完璧な「女」の唇。

ズルリ、と。

汚れたスウェットが、再構成された肉体の圧力に耐えかねて裂けた。

中から現れたのは、陶器のように白く、月光を吸い込んだかのように仄白く発光する、少女の四肢だ。

頭部。

脂ぎった短い髪が、一瞬で爆発的に伸びる。

闇を煮詰めたような漆黒、その毛先に、魔性の紫を滲ませた長い髪が、床を這うように広がっていく。

そして、額の両脇からは、滑らかな曲線を描く黒い角が、夜の王冠のように生え揃った。

「……お……おぉ……」

隆は、涙を流しながら見つめていた。

それは恐怖の涙ではない。

あまりにも圧倒的な「美」を前に、人間の防衛本能が崩壊した結果だ。

ついに、変化が止まる。

紫の蒸気が晴れ、そこには――。

四十五歳の引きこもりニート、日影薫の姿はどこにもなかった。

そこにいたのは、漆黒のドレスを纏ったかのような影を背負い、全人類を誘惑し、跪かせるために生まれてきた魔性の美少女。

カルロッテ。

彼女は、ゆっくりと目を開けた。

ルビーのように紅く、深淵のように深いその瞳が、カメラのレンズを見据える。

「……ふふ。……ねえ、みんな。……・・のこと、もっとよく見て?」

その声が、スマートフォンのスピーカーから放たれた瞬間。

世界中でその画面を見ていた者たちのデバイスから、一斉に紫色の光が漏れ出した。

そして、目の前にいる隆の瞳もまた、その声を聞いた瞬間に、意志を失った虚ろな「愛欲の光」へと染まっていく。

カルロッテ――薫は、自分の新しい身体を愛撫するように抱きしめた。

かつて自分を辱めた「視線」が、今は自分を支える「力」に変わる。

その快感に、彼女は背筋を震わせながら、最高の笑顔を作ってみせた。

「……あは。……最高の誕生日プレゼントだわ」

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