序章
「……あ」
カチリ、と。
安物のプラスチックが立てる乾いた音だけが、死んだように静まり返った六畳間に響いた。
百円ライターの火が、三度目の試行でようやく小さな種を灯す。
日影薫は、肺の奥まで吸い込んだ安タバコの煙を、黄ばんだ天井に向けて吐き出した。
天井の隅には、いつからそこにあるのか分からない蜘蛛の巣が、換気扇の微かな振動に揺れている。
「……また、今日が終わるのか」
時刻は午後二時。
世間では「昼時」が終わり、人々が午後の仕事に精を出す時間。
だが、この遮光カーテンが固く閉ざされた部屋において、時間は意味をなさない。
薫は、万年床から這い出した。
肌にまとわりつく寝汗と、数日間取り替えていないスウェットの不快な重み。
床には、中身が半分残ったまま腐敗したコンビニのパスタ容器と、飲みかけで放置されたペットボトルが、地層のように積み重なっている。
その「地層」を避けながら、彼は部屋の隅にあるPCの前へ、這うようにして移動した。
椅子に座るのではない。床に直接座り込み、猫背を丸めてモニターの光を浴びる。
それが彼にとっての、唯一の「世界」との接点だった。
(……なんで、こうなっちまったのかな)
ふと、モニターの電源が落ちた暗転の瞬間に、自分の顔が映った。
脂ぎった肌。無精髭。落ち窪んだ目。
そこには、四十五年という歳月を無駄に積み上げた「残骸」がいた。
かつて、この顔は「希望」だったはずだ。
中学生の頃。合唱コンクールでソロを任され、ダンス教室では「君には華がある」と教師に肩を叩かれた。
将来は表現者になりたい、光の中で生きたい。そう本気で信じていた。
だが、その「華」が、彼を地獄へ突き落とした。
『女みたいな顔しやがって』
『調子乗ってんじゃねえぞ、薫ちゃん』
脳裏に、あの放課後の湿った空気と、笑い声が蘇る。
体育館の裏。スマホのレンズを向けられながら、ダンスを「真似事」だと嘲笑われた。
真剣であればあるほど、彼らは楽しそうに薫を踏みにじった。
そして、カメラの前で。土下座する彼の頭上に降り注いだ、あの温くて嫌な臭いのする「雨」。
(……思い出すな。もう、終わったことだ)
薫は強く目を閉じたが、瞼の裏には今も、動画サイトのコメント欄が流れていく。
『小便シャワー小僧ww』『自称アイドルの末路』。
あの日、彼は「社会的な死」を迎えた。
それから二十五年。
一度も「外」の空気をまともに吸うことなく、彼はこの部屋で腐り続けてきた。
腹が鳴る。
薫は重い腰を上げ、部屋の片隅にある「食料庫」――ただの段ボール箱を漁った。
出てきたのは、賞味期限が三日前に切れた安売りの菓子パン。
袋を破ると、保存料の匂いと人工的な甘い香りが、澱んだ部屋の空気に混ざり合う。
「……マズい」
ボソボソとした生地を口に押し込む。
味覚など、もうとうに死んでいる。ただ、餓死しないために胃に物を放り込むだけの作業。
ふと、窓の外から子供たちの遊ぶ声が聞こえてきた。
「……うるさい……」
薫は耳を塞いだ。
彼らにとっての日常は、薫にとっての猛毒だ。
光、希望、未来。そんな言葉は、この部屋の埃と一緒に掃除機で吸い取ってしまいたい。
だが、掃除機をかける気力すらない。
彼は再び、万年床へと潜り込んだ。
カビ臭い布団の感触が、今は唯一の救いだった。
「明日こそは、死のう」
そう呟くのが、ここ十年の就寝の挨拶だった。
窓の隙間から、日影がじわりと部屋に侵入してくる。
それは、彼を祝福する光ではなく、彼が消えるべき場所を指し示す影だった。
この時、彼はまだ知らなかった。
自身の喉の奥で、その「絶望」を糧にして、おぞましくも美しい「魔」の蕾が、音もなく膨らんでいることを。
ずるり、と。
指先がスマートフォンの画面をなぞる。
亀裂の入った画面越しに見るSNSは、薫にとって「自分を殺し続けるための刃」でしかなかった。
かつて自分を地獄に突き落とした加害者たちの現在を、彼は呪うように追い続けている。
ある者は会社を経営し、ある者は海外でゴルフに興じている。あの日、薫の頭に小便をかけた主犯格の男などは、今や「良き父親」を演じてSNSで育児論を語っていた。
(……なんで、あいつらが笑ってるんだ)
喉の奥がヒリつく。吐き気がする。
だが、それ以上に薫の心を抉るのは、画面に映る「まっとうな世界」そのものだった。
その時、通知音が濁った部屋に鳴り響く。
『隆:薫、生きてるか? 息子の入学祝いで実家に帰るんだ。明日、久しぶりに顔見せろよ』
画面に表示されたメッセージ。
雛菊隆。唯一、あの日から今日まで、自分を「人間」として扱い続けている男。
だが、今の薫にとって、隆の善意はどんな悪意よりも鋭く胸に突き刺さる毒だった。
隆は、薫が「アイドル」を夢見ていた頃の、最高の理解者だった。
共にダンスを練習し、共に夢を語った。
しかし今、隆は二十七歳の若くて美しい妻を持ち、二人の息子に恵まれ、地方都市で堅実な家庭を築いている。
「……無理だ」
薫は震える指で、スマートフォンを万年床に放り出した。
今の自分を見せられるわけがない。
隆の目に映る自分は、きっと「憐れみの対象」ですらない。ただの、動くゴミだ。
追い打ちは、それだけでは終わらなかった。
何気なく開いた動画投稿サイトの「おすすめ」に、一つの動画が表示された。
タイトルは――『【伝説】あの小便シャワー小僧の現在を特定してみたwww』。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
恐る恐る再生ボタンを押す。
画面の中で、覆面をした若い配信者が、薫のアパートの前に立っていた。
「えー、こちらが二十数年前に一世を風靡した伝説の変態、日影薫くんの現在のお住まいだそうです!」
コメント欄が、滝のように流れていく。
『うわ、まだ生きてたの?』『45歳でこれとか人生詰んでるだろ』『キモすぎw』
二十五年前の「あの動画」が、最新の技術で高画質化され、再び世界中に晒されている。
動画の中の若い男は、薫の部屋の窓を指さして笑う。
「中には、きっと熟成された45歳のニートが詰まってますね! 突撃してみましょうか?」
ドンドン、と。
現実の玄関ドアが叩かれた。
「おい、薫ー! いるんだろ? 中からタバコの匂いすんぞ!」
動画の中の配信者ではない。隆だ。約束の時間より早く、彼は来てしまった。
モニターの中の嘲笑と、玄関の向こうの善意。
二つの「光」に挟み撃ちにされ、薫は部屋の真ん中でガタガタと震え出した。
「嫌だ……来るな……見ないでくれ……!」
逃げ場はない。
この六畳一間の檻の中で、四十五歳の怪物は、ただ自分の醜さに窒息しそうになっていた。
外では隆がドアノブを回そうとしている。
ネットの向こうでは、何万人という人間が、薫の破滅をコンテンツとして消費しようとしている。
「あああああああああああッ!!」
声にならない悲鳴を上げ、薫は両手で顔を覆った。
その瞬間。
彼の指の隙間から、これまで見たこともないような『不気味で美しい紫色の光』が、激しく漏れ出した。
絶望が、限界を突破した。
薫の身体の中で、二十五年間熟成された「怨嗟」と、かつて踏みにじられた「表現への渇望」が、サキュバスという異形へと結晶化し始める。




