誠の旗損壊事件
──第1章── 旗損壊事件
屯所の朝は、いつもより静かだった。
――静かすぎた。
「……旗が……!」
門番の市村勇介が膝をついた。
十七歳。入隊してまだ日が浅い。
誠の旗は、門の上で裂け、布は無残に垂れ下が
――静かすぎた。
「……旗が……!」
門番の市村勇介が膝をついた。
十七歳。入隊してまだ日が浅い。
誠の旗は、門の上で裂け、布は無残に垂れ下がっていた。
空気が冷える。
土方歳三の声が、それを切り裂いた。
「誰が、何のためにやった」
「すぐ調べろ」
誠の旗は新撰組そのものだ。
許されるはずがない。
当日、門を預かっていたのは市村一人だった。
見習いを終え、ようやく井上源三郎の六番隊に配属されたばかりの若者である。
「何のための門番だ!」
井上の叱責が飛ぶ。
だが、その声はどこか震えていた。
「旗は組の誇りだ」
近藤勇が重々しく頷く。
「士道不覚悟だな」
その言葉に、場が凍りついた。
士道不覚悟――
新撰組において、それは終わりを意味する。
切腹。
あるいは斬首。
市村の顔から血の気が引いた。
叱っていたはずの井上も、同じ色をしていた。
井上の視線が、すがるように沖田総司を探す。
だが沖田は、ただ立ち尽くしていた。
ーー
屯所の奥。
井上源三郎は近藤と土方の前で深く頭を下げていた。
「すべては、私の責任です」
「どうか、市村の命だけは……」
井上は最年長の幹部であり、
近藤や土方にとっては兄弟子にあたる存在だった。
不器用だが、誰よりも誠実な男である。
その井上が、こうして頭を下げている。
だが土方は視線を逸らさない。
「門を預かり、旗を守れなかった」
「それ以上の理由があるか」
近藤も頷く。
「新撰組は寄せ集めだ」
「だからこそ、旗がいる」
その時、後ろに控えていた沖田が口を開いた。
「先生。誠の旗なら、また作れます」
「永倉さんが、もう手配しました。
十日もあれば、立派なのが届きます」
近藤は沖田をまっすぐに見据えた。
「総司。誠の旗は布ではない」
「志だ」
沖田は一瞬黙り、それから笑った。
「ええ。じゃあ今度は、もっと大事にします」
「だから……市村くんは、助けてやってください」
沖田は、井上と並んで頭を下げた。
⸻
新しい旗が用意されると、屯所には一応の落ち着きが戻った。
だが、市村の処分は決まらなかった。
許されたわけではない。
ただ、決められていないだけだ。
斬首――
その噂だけが、消えずに残った。
⸻
─第2章── まっさらな旗
朝の巡察は、いつもと同じ刻限に始まった。
同じ道を、同じ人数で歩く。
ただ一人、足りない。
誰もその名を呼ばなかった。
呼べば、何かが決まってしまう気がした。
新しい誠の旗が門の上ではためいている。
「……立派だな」
誰かが言った。
それきり、誰も続かなかった。
「旗なんぞ、戦場に出りゃ血を吸って破れる」
斎藤一が吐き捨てる。
「布一枚のために首が飛ぶなんてな」
永倉新八は笑ったが、目は笑っていない。
「突っ込む前に、誠の旗のこと考えるか?」
沖田が軽く肩をすくめる。
「仲間の背中しか見てないだろ」
原田左之助が旗に手をかけた。
「でもよ、これがあると帰る場所がわかる」
「字は何でもいいだろ?」
永倉が言う。
「カエルでも蛇でもな」
沖田は目を細めた。
「偉い人間は旗で人を動かす」
「俺たちは、そこに集まる習性があるからな。」
誰も否定しなかった。
新しい旗はただ旗として風になびいている。
壊れたものが何だったのか、
誰も口にしなかった。




