第九章「畑番の僕と、助けを求める声」
ばあちゃんは、ほとんど一日中眠っていた。
熱は少し下がったけれど、咳の深さは変わらない。
台所の椅子に座っていると、
静けさばかりが耳に入ってくる。
母が出張でいない家は、
想像以上に大きく感じた。
(こんなに静かやったんや……)
ふと、ばあちゃんの言葉が頭に浮かぶ。
「……僕、今日は畑、頼むで」
頼られたのに、
ただ座ってるわけにはいかない。
僕は長靴を履いて外へ出た。
⸻
畑は昨夜の雨を吸って、いつもより土が重たい。
葉っぱの裏には、弾けそうなほど水滴がついている。
支柱は昨日締め直したおかげで無事だったが、
つるが何本か倒れかけているのが見えた。
「うわ……」
僕は急いで近寄る。
つるを持ち上げようとして、
力加減を間違えて折ってしまった。
「あっ……」
胸がざわつく。
折れてしまった細いつるは、もう戻らない。
(どうしよう……)
あたふたしているうちに、
土の上に雨粒とは違う水滴が落ちた。
(俺、一人じゃ無理なんちゃうか……)
その瞬間。
軽トラのエンジン音が近づく。
佐藤さんだった。
「おーい、僕! ばあちゃん、どうや?」
「ちょっと熱あって……今日は寝てます」
「そら心配やな。
で、畑は一人で見とるんか?」
「……はい」
「ほな手ぇ貸すわ! 一人でやるんは無理や」
佐藤さんは僕の顔を見ると、
状況を全部察したように笑った。
「大雨のあとや。つる弱っとるねん。
折れるのはしゃーない。みんなやって失敗するで」
その言葉に、胸の中の緊張が少しだけほぐれた。
⸻
二人で作業をしていると、
今度は別の声がした。
「ばあちゃーん、大丈夫ですかー?」
振り返ると、
凛が手提げ袋を抱えて畑の入口に立っていた。
「あ……“僕さん”。
ばあちゃん、具合どうですか?」
凛は心配そうに眉を寄せる。
昨日より近い距離で目が合った。
「ちょっと熱あって……今日は寝てます」
「そっか……。
これ、少しでも食べられたらと思って。
冷や汁なんですけど、喉通りやすいし……」
凛は袋を差し出した。
「あ、ありがとうございます。
ばあちゃん、喜びます」
「よかった。
……って、あの……“僕さん”?
一人でやってるんですか?」
「はい。でも……失敗ばっかで」
凛はふっと笑った。
「失敗せぇへん人なんておらんよ。
私も料理とか、三回に一回焦がします」
その言い方がやさしくて、
胸の中の重さがすうっと軽くなった。
「何かあったら呼んでくださいね。
……“僕さん”でも、大丈夫ですから」
その言葉が、
やけに強く心に残った。
彼女が去ったあと、
佐藤さんがぼそっと言う。
「凛ちゃん、ええ子やなあ」
「はい……」
何気ない返事だったのに、
頬が少し熱くなるのが分かった。
⸻
夕方、作業を終えて家に戻ると、
ばあちゃんが目を覚ましていた。
「……僕。畑、大丈夫やったか」
「うん。佐藤さん来てくれた。
あと……凛さんも来てくれた」
ばあちゃんはにっこり笑う。
「あの子はええ子や。
前からな、僕の話をよう聞いてくれてたんやで」
「えっ……僕の?」
「せや。
“ばあちゃんとこの僕さん、どんな子なん?”
ってな」
胸が、どくん、と鳴った。
そんな風に興味を持ってくれていたなんて、
思ってもみなかった。
「そっか……」
照れくさいけど、
悪くない。
むしろ、
胸の奥であたたかいものが広がっていく。
⸻
その夜、
冷や汁を温度だけ少し整えてばあちゃんに出すと、
ばあちゃんは本当に嬉しそうに食べた。
「……やさしい味やなぁ」
凛の顔がふっと浮かぶ。
僕はまだ“僕”のままやけど、
今日、誰かに“頼られた”のは確かだった。
そして、
誰かを“頼った”のも、初めてだった。
畑番を終えた手のひらには、
今日一日分の土がしみこんでいた。
(第九章 了)




