第八章「入院の兆しと、空っぽの台所」
朝の光が差し込む頃、
ばあちゃんはまだ布団の中で浅い呼吸を繰り返していた。
昨日より、咳が深い。
息をするたび胸が苦しそうに上下する。
僕は台所に立ち、湯を沸かしながら何度も後ろを振り返った。
(大丈夫やろか……)
母はすでに出張へ向かった。
玄関先で母が振り返った時の表情が、まだ頭から離れない。
「……大樹。
ごめん。ほんまに頼むから。
何かあったら、すぐ連絡して」
母の声は震えていた。
“アンタ”ではなく、“大樹”と呼ばれた声。
その重さが、僕の胸にまだ残っている。
⸻
ばあちゃんの枕元に水を置くと、
薄く開いたまぶたがこちらを向いた。
「僕……起きてたんか」
「起きてたよ。っていうか、寝られへんかった」
ばあちゃんはかすかに微笑んだけれど、
その表情は力が抜けていた。
「ちょっと、しんどいだけや。
熱も……そんなに高ないやろ」
そう言いながら、咳が込み上げる。
肩が震え、小刻みに体が揺れる。
僕は体温計を取って、そっと手渡した。
「測って」
「もうええて言うてるのに……」
ぶつぶつ言いながらも、ばあちゃんは体温計を口にくわえた。
ピピッ。
表示された数字を見て、息が止まる。
「……38.6度」
昨日より上がっている。
「ばあちゃん、病院行こ」
「いらんて。寝たら治るんや」
強く言おうとした声は、掠れていた。
強がっているのが、すぐに分かる。
僕は、深く息を吸った。
昨日までの“僕”なら言えなかった言葉が、
今はゆっくり口から出てくる。
「……治らんかったらどうすんの?
俺、ばあちゃんのこと守りたいで」
ばあちゃんは少し目を見開いた。
そのあと、寂しそうに目を細めて小さくつぶやく。
「……あんた、変わったなぁ」
「変わったんとちゃう。
ばあちゃんが、弱っとるだけや」
自分でも驚くほど自然に言えた。
ばあちゃんはゆっくりと起き上がろうとして、
またふらつく。
僕は慌てて背中を支えた。
「ほら、やっぱり……。病院行こ」
「……行くだけ行ってみよか」
弱々しい声だったけれど、
それは初めて見せてくれた“助けて”の合図にも見えた。
⸻
ばあちゃんを車に乗せ、
薄曇りの道をゆっくり走る。
途中、凛が自転車で通り過ぎた。
僕たちに気づくと、自転車を止める。
「あ……ばあちゃん、大丈夫ですか?」
「ちょっとな、風邪ひいただけや」
凛は心配そうに眉を寄せる。
「無理しちゃだめですよ。
……“僕さん”、気をつけて連れて行ってあげてくださいね」
僕は深くうなずいた。
その“僕さん”という呼び方が、
今日はいつもより温かく胸に残った。
⸻
診察を終えて家に戻ると、
母はいない。
台所も静かで、
鍋も、まな板も、風が吹いているだけのように寂しかった。
「ばあちゃん、ベッド行こ」
肩を支えると、ばあちゃんはゆっくり歩きながら言う。
「家ん中、静かやなぁ……」
「母さん、出張やし。
……俺らしかおらへん」
その言葉を言った瞬間、
家の空気ががらんと広がった気がした。
ベッドに横になりながら、
ばあちゃんはぼそっと言った。
「僕……今日、一緒にごはん食べられへんわ。
ちょっと寝とく」
「いいよ。食べられへん時は寝たらええ」
ばあちゃんはゆっくり目を閉じる。
その姿は、いつもの強いばあちゃんじゃなくて、
少しだけ小さく見えた。
僕は静かな台所に立った。
冷蔵庫を開ける音だけが響く。
卵、玉ねぎ、豆腐。
簡単なものしか作れそうにない。
でも――
「俺が作ったらええやん」
声に出してみると、なんだか肩が少し軽くなった。
空っぽの台所。
それでも僕は、ひとりでエプロンをつける。
ばあちゃんが眠る部屋から、
かすかな寝息が聞こえた。
その音を確かめながら、
僕は静かにまな板の上に包丁を走らせた。
自分で考えて、
自分で動く。
それを少しだけ誇らしく感じながら。
(第八章 了)




