第七章 ばあちゃんの微熱と、母の頼み
夜じゅう降り続いた雨は、朝になってようやく止んだ。
畑は濡れた葉っぱを重たそうに垂らしている。
昨日、必死に締め直した支柱は倒れていなかった。
その事実にほっとする。
けれど――
家の奥から聞こえた咳が、胸をざわつかせた。
いつもの軽い咳ではない。
深くて、重たく響く咳。
「ばあちゃん?」
台所へ行くと、ばあちゃんは味噌汁を前に、少しぼんやり座っていた。
顔が赤く、呼吸が浅い。
「……あぁ、僕か。寝冷えしたんやろ。大丈夫やて」
声が弱い。
笑おうとしても、笑顔の端が下がっていた。
母が眉を寄せる。
「ちょっと、ほんまに大丈夫? 顔、熱あるで。測ろ」
「いらんて。病院なんて大げさやわ」
そう言いながら、味噌汁に手を伸ばした瞬間──
ばあちゃんの体がふらりと傾いた。
「ばあちゃん!」
僕は慌てて肩を支えた。
いつもなら冗談を飛ばしてごまかすのに、
今日はただ、あえぐように息を整えるだけだった。
その静けさが怖かった。
母は体温計を取りに走る。
僕がばあちゃんの背中をさすっていると、
母が戻ってきた。
「お願い、測らして」
ばあちゃんはしぶしぶ体温計を口にくわえた。
ピピッ。
数字を見た瞬間、息が止まる。
「……38度近いわ」
「ちょっと熱あっただけや。寝たら治る」
母は黙ってばあちゃんを見つめたあと、
一度深呼吸して、僕のほうを向いた。
そのときだった。
母が、
いつもの“アンタ”ではなく、
静かに、素直な声で言った。
「……大樹」
胸が跳ねる。
母に名前で呼ばれたのはいつぶりだろう。
「……今日、私、仕事の出張でどうしても休まれへんねん。
ほんまに、ごめん」
母の声が震えていた。
「ばあちゃんの様子、見ててくれへん?
何かあったら、すぐ連絡して。頼む」
母は深く頭を下げた。
謝るように、すがるように。
その姿を見て、僕は思わず言っていた。
「……うん、大丈夫。
任せて」
母はほっとしたように笑った。
「ありがとう、大樹」
その“ありがとう”は、
胸の奥にまっすぐ落ちていった。
⸻
ばあちゃんを布団に寝かせると、
息は浅く、頬は熱く赤い。
「僕……今日は畑、頼むで」
「うん。任せて」
ばあちゃんは弱々しく笑ったあと、目を閉じた。
部屋が静かになる。
雨上がりの湿った風が、カーテンをわずかに揺らした。
その風の音の向こう、
母に呼ばれた「大樹」という名前だけが、
胸の真ん中でぽつんと光っていた。
(第七章 了)




