第六章「大雨前夜の支柱立てと、名前の重さ」
昼過ぎ、空が急に暗くなった。
太陽は出ているのに、雲だけが重たく垂れ込めている。
畑に立つと、湿った風がひゅうっと吹き抜けた。
ばあちゃんが空を見上げてつぶやく。
「……これは来るなぁ。
僕、大雨の前に、支柱もう一回締め直すで」
「大雨?」
「ニュースで言うてた。今夜ひと降りくるで。
こういう前触れのときは、風が落ち着かんのや」
ばあちゃんの声が、いつもより少しだけ低い。
畑の葉っぱもざわざわ揺れている。
佐藤さんが軽トラでやって来た。
「ばあちゃん! 大丈夫か?
こっちも手伝うで!」
「助かるわぁ。ほな、僕と三人でやろ」
僕も慌てて支柱のそばに立つ。
いつもより土が柔らかい。
足元が沈む。
「僕、この結び目もう一回締めて!
強い風来たら、ここ真っ先に倒れるで!」
「はい!」
佐藤さんが僕の背中を軽く叩く。
「ええぞ、僕! こういうのはスピード勝負や!」
次の瞬間、よしえさんも小走りで来た。
「ばあちゃん! 手伝うわ!
ほら、僕! 手ぇ貸して!」
今日だけで、何回“僕”と言われただろう。
呼ばれるたびに返事して、
全員の指示を聞いて、
動いて、結んで、支えて。
役割としての“僕”が、畑の中を走り回っていた。
でも――胸の奥のどこかで、小さな痛みがじん、と残る。
「(僕……僕……)」
名前じゃない。
呼び名の響きが、今日は少し重たい。
それでも手は止められない。
雨が来る前にやれるだけやらないと。
ばあちゃんが息をつきながら言う。
「僕、こっちのつる誘導もお願い!」
「分かった!」
僕は走る。
汗が目に入る。
風が強くなってきた。
遠くで雷のような音が鳴った。
「急がなあかん!」
佐藤さんの声が畑に響く。
支柱を押さえながら、僕はふと空を見上げた。
空気が張りつめていて、すぐにも降り出しそうだった。
昨日、凛が持ってきた差し入れの袋。
あのときの笑顔。
なぜか、頭に浮かんだ。
(“僕さん”?……あの言い方、なんであんなに胸に残ったんやろ)
胸の奥に、ぽつんと灯りがともるようだった。
「僕!! こっち手ぇ貸して!」
「あ、はい!」
名前を呼ばれてはいないのに、
誰かに必要とされている感覚だけは確かにある。
でも、それで満たされるわけじゃない。
誰も僕の“名前”を知らないまま、
僕は走り続けている。
その事実だけが胸の奥に刺さったまま、
作業はやがて終わりに近づいていった。
最後の支柱を結び終えたとき、
ぽつ、ぽつ、と冷たいものが頬に落ちた。
「来たな……」
ばあちゃんがつぶやいた直後、
空は一気に降り始めた。
慌てて家へ走る。
団扇のような雨粒が肩に叩きつけられる。
家に駆け込んだ瞬間、
どっと疲れが押し寄せた。
「……ふぅ」
雨は屋根に強く当たり、
まるで太鼓みたいな音を立てていた。
ばあちゃんがタオルを差し出してくる。
「よう働いたな、僕。
あんたがおらんかったら、倒れてたで」
褒められたのに、胸がぎゅっとした。
“僕”ばかり。
今日一日で、ずっとそれだけ言われ続けた。
名前は……
誰にも、呼ばれへんかった。
雨音の向こうで、
胸の中に残ったその空白だけが、静かに疼いていた。
(第六章 了)




