第五章 通知を切る日と、身体で覚える暮らし
畑仕事が続いたせいか、朝の目覚めが前より少し早くなった。
布団から起き上がると、体がじんわりと重たいけれど、嫌な重さじゃない。
階段を降りる途中で、
ポケットに入れっぱなしのスマホが震えた。
一瞬、いつもの癖で画面を見ようとする。
けれど――
昨日収穫したミニトマトの味がふっと思い出された。
つい、画面を裏向きに置いた。
ばあちゃんが台所から顔を出す。
「僕、おはようさん。
今日は“つるの誘導”教えたるで」
「つる?」
「せや。ほっといたら好き勝手伸びて、えらいことなるんや」
ばあちゃんは笑って、味噌汁の味見をした。
母は新聞を読みながら
「アンタ、今日も手伝いしてや。助かるし」
とだけ言った。
僕は「うん」と返した。
この“うん”が、前より自然に出るようになったのが自分でも分かる。
外に出ると、朝の風が顔にあたる。
南風だった昨日より、少し冷たい。
ばあちゃんが畝の横で手招きする。
「僕、ここのきゅうり見てみ。
つるが迷子になっとる」
よく見ると、細いつるが支柱とは違う方向へ伸びていた。
「ここをな、こっちの支柱に優しう誘導してやるんよ。
無理に引っ張ったら折れるで」
ばあちゃんの指先は、
まるで子どもの手を引くみたいにやさしかった。
僕も真似してつるを持つ。
土の匂いと、朝露の水滴が指にひんやりする。
「……意外とむずいな」
「せやろ。生き物やからな」
生き物。
画面の中じゃなくて、目の前でちゃんと呼吸してる。
作業していると、どこか遠くで軽い足音がした。
視線を向けると、
凛が手提げ袋を抱えて歩いてきた。
「あ、ばあちゃん。これ、昨日のおすそ分けです」
凛はにっこり笑って袋を渡した。
ばあちゃんも嬉しそうだ。
「凛ちゃん、ほんま気ぃ使わんでええのに」
「いえいえ、いつも野菜もらってますし」
そして、凛の目が僕に向いた。
「あ……えっと……“僕さん”?
おはようございます」
また、その呼び方。
でも、昨日より…ちょっと柔らかかった。
僕は小さく会釈した。
「おはようございます」
凛は去っていく。
その後ろ姿を見ていると、
胸の奥にひっそりした余韻が残った。
ばあちゃんが言う。
「僕、気ぃ抜いたらつる折ってまうで」
「あ、うん」
風が吹いて、畑全体がざわざわと揺れる。
その音がやけに心地よかった。
昼前、スマホが二度震えた。
ポケットから取り出そうとしたけれど、
なぜか手が止まる。
僕は深呼吸して、通知を切った。
完全に。
画面は黒いまま。
耳元の風の音だけが聞こえる。
「お、僕。ええ顔しとるやん。
風と仲良うなってきたか?」
ばあちゃんが笑う。
僕も笑ってうなずいた。
“僕”と呼ばれているのに、
なんだか昨日より軽い。
でも――
胸の奥の、名前のない空白は消えていない。
その“空白”を、
どこかで誰かがそっと触れたらどうなるんだろう。
そんなことを思った自分に少し驚きながら、
僕はまた土に手をのばした。
(第五章 了)




