第四章 初収穫と、名前のないほめ言葉
朝露の落ちた畑は、昨日よりも色が濃く見えた。
緑が太陽を吸って、ゆっくり呼吸しているみたいだった。
「僕、今日は収穫いくで。初めてやな」
ばあちゃんが言うと、僕の胸が少しだけ高鳴った。
収穫。
ただの雑草抜きや支柱立てとは違う響き。
ばあちゃんは、しゃがんで葉っぱを持ち上げた。
「これ見てみ。ええ色や。
そろそろ採ってええ証拠やで」
葉の影に、真っ赤なミニトマトが隠れていた。
光に透けて、宝石みたいに見える。
「うわ……綺麗やな」
「せやろ。よう育ったわ。
ほら、僕の初収穫やで。つまんでみ」
そっと指で触れると、ぽとりと軽い音を立てて取れた。
その瞬間、胸の奥がふわっとした。
画面の向こうでは絶対に得られへん感触。
「食べてみ」
ばあちゃんに促され、そのまま口に入れる。
甘い。
スーパーで買うのとは全然違う。
皮が薄くて、中の水分が弾けるみたいに広がる。
「……めっちゃうまい」
「そらそうや。
僕が世話したんやから、うまいに決まっとる」
褒め言葉なのに、
“僕”と呼ばれるたび、胸の奥がわずかに引っかく。
嬉しいのに、少し寂しい。
そんな複雑な気持ちがぐるぐると渦を巻く。
そのとき、畑の外から声がした。
「ばあちゃん、おるかー?」
佐藤さんだ。
軽トラを停めて、こちらへ歩いてくる。
「お、ええの採れとるやん!」
佐藤さんは収穫したばかりのトマトを見て、にやっと笑った。
「ばあちゃん、やっぱ腕ええわ。
……いや、今日は僕の腕か?」
「そやで。うちの僕がな、きれいに育てたんや」
「あー、なるほど。
僕、やるやんか!」
「ありがとうございます……」
口では礼を言ったけれど、
胸の奥の違和感は、少し強くなる。
さっきの“僕の腕”という言い方。
僕の“名前”はどこにも出てこない。
――僕、ほんまに“僕”って名前やったっけ。
ふとそんな考えが浮かんで、
自分で驚いた。
昨日会った凛の笑顔が、なぜか頭に浮かぶ。
“僕さん”、かわいい呼び方ですね。
あのときの、少し困ったような、でも優しい眼差し。
「僕、ぼーっとしてどないしたんや」
ばあちゃんの声で我に返る。
「あ、いや……なんでもない」
「ほな、こっちも採るで。
これはな、形悪いけど味ええんや」
ばあちゃんは、曲がったきゅうりを一本抜き取った。
曲がっていても、妙に愛嬌のある姿。
「形悪いのに、美味しいん?」
「形なんて関係あらへん。
“育った環境”で味は変わるんよ」
その言葉に、胸がちくりとする。
育った環境。
名前で呼ばれへん環境。
“僕”のまま過ぎてきた日々。
「はい、僕の仕事、まだまだあるで」
ばあちゃんは笑顔で言う。
その声が嫌なんじゃない。
むしろ温かい。
信頼すら感じる。
けれど――胸の違和感は消えなかった。
名前で呼ばれへん僕。
誰かにとって便利な“僕”。
褒められても“僕”。
収穫の嬉しさと、胸のざわつきが、
ぐちゃぐちゃに混ざったまま、
僕の一日はゆっくりと過ぎていった。
(第四章 了)




