第三十八章(最終章) ばあちゃんと僕の名前、そしてこれ
冬の冷たい風が少しだけ緩み、
畦道に柔らかい陽が差し込むようになってきた。
その日の午後、
ばあちゃんは縁側に座って、
陽だまりに足を伸ばしていた。
「大樹、こっち来ぃや」
呼ばれて、僕は座布団を持って隣に腰を下ろす。
ばあちゃんの膝の上には、
庭で拾った梅の小枝が乗っていた。
「今年は早よ咲きそうやなぁ」
ばあちゃんはそれを指でなでながら、
ふふっと笑う。
僕も庭を見ながら返す。
「うん。蕾がよう膨らんできてる」
しばらく、
風の音だけが流れた。
ばあちゃんは小さく息をついて、
縁側に持たれかかった。
「大樹」
その声はいつもの名前呼びで、
だからこそ胸にじんわり染みる。
「うん?」
「これからのこと、考えとるか?」
言葉に詰まりそうになったが、
僕は静かに頷いた。
「……考えてる。
畑のことも、働くことも。
逃げずにやっていかなあかんなって」
「そうか」
ばあちゃんは目を細める。
「大樹は、昔から“僕”って言い方が好きでな。
優しい子やった」
胸が少し熱くなる。
「でもなぁ……
あんたももう大人やで」
「……うん」
ばあちゃんの言葉は続く。
「“僕”でええよ。
あんたが好きな呼び方で生きたらええ」
「ただな――
自分の名前も、大事にしぃよ。
大樹として、胸張って生きていきなさい」
その瞬間、
胸の奥がふっと軽くなった。
ばあちゃんに名前を否定されたんやなく、
「大樹」として生きることを
そっと背中押してもらった気がした。
僕はゆっくり息を吸った。
「大樹として……生きる。
そう決めたい」
ばあちゃんは嬉しそうに笑った。
「それでええんよ」
⸻
夕方になるころ、
玄関から足音が聞こえた。
「こんにちは。入ってもいいですか?」
凛さんだった。
ばあちゃんは手を振る。
「凛さん、ちょうど大樹が帰ってきたとこやで」
僕はあわてて玄関に向かい、
凛さんを迎える。
「今日もありがとうな」
「いえ。
大樹さんの顔見たら安心しますし」
その言葉が胸を温かくする。
三人でしばらく縁側に座って過ごした。
梅のつぼみ、
風の匂い、
ばあちゃんの笑顔、
凛さんの柔らかな横顔。
なんでもない景色が、
今日だけは特別に見えた。
⸻
日が沈み、
凛さんを見送るため一緒に玄関へ。
靴を履きながら、
凛さんがぽつりと言った。
「……大樹さんの“これから”の話、
もっと聞きたいなと思って」
胸が跳ねた。
「僕でよかったら……話すで。
ゆっくりやけど」
凛さんは頬を赤くして笑った。
「ゆっくりがいいです」
その笑顔が、
今日見たどの梅より柔らかかった。
⸻
家に戻ると、
ばあちゃんが布団の上から僕を見ていた。
「大樹」
「ん?」
「幸せになりぃよ」
その言葉は軽くて、
でも深い。
僕はうなずいた。
「……うん。
僕、ちゃんと大樹として生きる」
夜風がそよぎ、
庭の梅が小さく揺れた。
僕とばあちゃんと、大樹のこれから。
ここから続いていく。
(最終章 了)




