第三十六章「ばあちゃんの体調の不安と、支える凛さん」
の日の朝。
畳を伝う空気が、いつもよりひんやりしていた。
居間に行くと、
ばあちゃんが座布団に体を預けて、
小さく息をついていた。
「ばあちゃん? どうしたん」
僕が急いで駆け寄ると、
ばあちゃんは手を振って言った。
「ちょっと、胸がしんどいだけや。
昨日動きすぎたんかな」
(胸……?)
昨日の入院の記憶が
一気に胸を締めつける。
「痛い? 苦しい?」
「そんなんやない。息はできるよ。
でも体が重いんよ」
安心できる言葉ではなかった。
僕の手が震えた瞬間――
玄関から声がした。
「おはようございます、大樹さん」
凛さんだ。
仕事は休みの日らしく、
薄いベージュのカーディガンを羽織っている。
僕の顔を見るなり、
すぐに表情が変わった。
「……大樹さん、どうしたんです? 顔色悪い」
「ばあちゃんが……しんどいって」
「あ……」
凛さんは慌てて駆け寄るのではなく、
落ち着いてばあちゃんの顔色を見て、
声を柔らかくして話しかけた。
「おばあちゃん、しんどいのはいつからですか?」
「朝起きた時からよ。
昨日、ちょっと無理したんかもなぁ」
「昨日動いた後からすぐじゃなく、
“朝から”しんどいんですね?
それやと疲れが出た可能性のほうが高いです」
医療者のような診察ではない。
でも、人の体調を気にかける“生活の知恵”として自然だった。
ばあちゃんは笑った。
「あんたは気がつくのが早いなぁ。
昨日から無理しとったんかもしれんわ」
凛さんは、
少し安心したように僕の方を見た。
「大樹さん。
急いで救急行く感じじゃなさそうです。
でも病院には連れていった方がいいです」
ホッと胸がゆるむ。
(……なんていうか、
落ち着かせ方が上手い人なんや)
僕が動揺しているのに、
凛さんの声だけが“地に足がついてる”みたいだった。
⸻
◆ 病院へ
母――茉莉花が車を出し、
僕と凛さんも付き添った。
ばあちゃんは診察室でチェックを受け、
医者からはこう言われた。
「軽い疲労です。
しばらく安静に。心配はいりませんよ」
(ほんま……よかった……)
力が抜けて、
椅子に座ったまま深く息を吐いた。
外に出ると、
凛さんが僕をじっと見て言った。
「大樹さん、震えてますよ」
「……僕、ほんま弱いわ」
顔を背けると、
凛さんはそっと僕の手首に触れた。
ぎゅっとではなく、
“確かめるように”そっと。
「弱いんやなくて……
“大切な人のことで揺れる”だけです」
その言葉が胸に広がっていく。
温かくて、
静かで、
泣きそうになるほど優しい音だった。
僕は小さく息を吸った。
「……ありがとう」
凛さんは首を振った。
「大樹さんが落ち着いてくれる方が、私も安心するんです」
(僕が落ち着いたら……
安心する?)
その言葉の意味が胸に残って、
心臓が少し跳ねた。
⸻
◆ 家に戻って
ばあちゃんは布団に入り、
茉莉花が傍につく。
廊下に出ると、
凛さんが僕に小さく微笑んだ。
「大樹さん、今日はずっと不安だったでしょ」
僕はうなずいた。
「怖かった。
ばあちゃん、また倒れたらって」
「その“怖かった”を、
一人で抱えたままにしないでくださいね」
「……凛さん」
「私もいますから」
その“私はいます”が、
胸のど真ん中にすとん、と落ちた。
(ああ……
僕、この人の言葉に
こんなに救われてるんや)
凛さんは照れくさそうに笑って、
最後にこう付け足した。
「また何かあったら……呼んでくださいね。
事務の仕事やけど、
できる手伝いは全部しますから」
僕の胸は
もう限界みたいに熱くなっていた。
(……好きになる理由ばっかり増えていく)
そんな予感が、
確かに芽を出していた。
(第三十六章 了)




