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僕とばあちゃんと、僕の名前  作者: つなかん


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第三十四章 夕暮れの散歩と、二人だけの話

夕方の空は、茜色と群青の境目がゆっくり混ざり合って、川面に細長い光の道ができていた。

畦道を並んで歩くのは、いつもの帰り道のはずなのに――今日は少し違う。


「風、気持ちいいですね」

凛さんが袖口を押さえながら、見上げる空に目を細めた。


「うん。夏みたいに重くないし、秋みたいに冷たすぎへん。いまの感じ、好きや」


口に出してから、少し照れた。

凛さんは、ふふっと笑って「わかります」と言っただけで、先を急がない。


沈黙が怖くなかった。

二人で同じ景色を見て、同じ速度で歩いている――それだけがやけに嬉しい。


土手の草が足首に触れたとき、凛さんがぽつりと聞いた。

「これからの大樹さ……えっと、その、大樹さんは、どうしたいですか?」


(大樹、って言いかけた?)

胸が小さく跳ねたけど、騒がしくしないように呼吸を整える。


「……畑、ちゃんと続けたい。ばあちゃんのやり方、僕なりに覚えて。

 それから、町のことも少しずつ手伝っていけたらいいなって思ってる」


言いながら、自分で驚いた。

“やってみたい”が、すっと“やる”に近づいている。


凛さんはうなずいて、歩幅を半歩だけ僕に合わせた。

「大樹さんが言うと、ほんまに叶いそうに聞こえます」


「そんな大それたこと、言ってへんで」

言いつつ、胸の奥が少し温かい。


堤防の上に座って、靴の砂を軽く払った。

遠くで電車が渡る音が、薄い夕暮れに線を引いていく。


「僕さ……父さんの手紙読んでから、怖いのはまだあるけど……逃げんとこって決めた」

口にした瞬間、声にわずかに“俺”が混じる。

「怖くても、進む。たぶん、それでええ」


凛さんは少しだけ目を見開いて、まっすぐこちらを見た。

「……強いです」

それだけ言って、言葉を置くみたいに膝の上で指を組む。


風が少し強くなって、凛さんの髪が頬にかかった。

僕は思わず――袖越しに、そっと指で払った。


「……ごめん。髪、入ってもうて」

「いえ……ありがとうございます」


二人とも笑った。

笑い声が風に混ざって、川の上にほどけていく。


「凛さんは? この先、どうしたい?」

問い返すと、凛さんは少しだけ考えて、空を見た。


「私は……誰かの“頑張りすぎ”に気づける人でいたいです。

 手伝えることが小さくても、隣にいられる人で」


その“いられる”に、妙に胸が熱くなった。

(隣、って……俺の、かもしれんやろか)

喉の奥がきゅっとする。


「それと……」

凛さんは一瞬、言葉を飲み込んでから、照れくさそうに続けた。

「さっき……呼び方、間違えそうになって。

 だ……――いえ、なんでもないです」


(今、僕の“名前”って言いかけた?)

鼓動が急に近くなる。

でも、焦らない。焦らせない。


「……ゆっくりでええよ」

僕は笑って言った。

「僕も、ゆっくりでええと思ってるから」


凛さんは、ほっとしたように目元をやわらげた。

「はい。ゆっくり、がいいです」


夕日が、川の端で最後に大きく揺れて沈んだ。

町の灯りがひとつ、またひとつと点いていく。

僕らは腰を上げて、土手を下りた。


家の角まで来たところで、凛さんが立ち止まる。

「あの……今日、ありがとう。話してくれて」


「僕のほうこそ。聞いてくれて、ありがとう」

言いながら、勇気をひとつ足した。

「また――歩こ。こうやって」


わずかに間があって、凛さんの笑顔が夜の灯りに咲く。

「……はい。歩きましょう、また」


別れ際、彼女の唇が小さく動いた。

かすれて、でも確かに聞こえる。


「――だ……い」


そこまでで、音がほどけた。

僕は追いかけない。

今は、これでいい。


胸の中で、灯りが点いたまま消えない。

“ゆっくり”は、遠回りじゃない。

たぶん、いちばんまっすぐな道だ。


(第三十四章 了)


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