第三十章 父の影のつづき、そして決意の夜
涙の跡が乾ききらないまま、
僕は便箋をそっと畳み、
膝の上に置いた。
母――茉莉花は、
まぶたを赤く腫らしながら、
まだ手紙を見つめている。
凛さんは黙って隣にいて、
僕の肩に触れた手を
すっと優しく離した。
家の中は、
時計の針の音だけが静かに響いていた。
しばらく誰も話さなかった。
茉莉花が、
深く息を吸って、
ゆっくりと口を開いた。
「……大樹。
あんたには伝えなあかん“もう一つのこと”がある」
胸がぎゅっと締まる。
(まだ……あるんか)
僕は小さく頷いた。
茉莉花は、
少し俯き、
言葉を整えるように指を組んだ。
「父さんが家を出たのは……
あの人が“逃げたから”やないねん」
涙が光る目のまま、
僕をまっすぐ見た。
「……あの人は、
病気やったんよ」
息が止まった。
「びょう……き?」
茉莉花は小さく頷く。
「心の病……
今で言ううつ病みたいなもの」
凛さんが息を飲む音が聞こえた。
言葉が胸に沈んだまま、
僕は何も言えなかった。
茉莉花は続ける。
「仕事で人間関係があかんようになって……
眠れへんくなって……
ご飯も食べられへんようになって……
ある日、急に“自分が父親でいていいんか”って
泣いて……震えて……」
声が震えた。
「大樹が生まれて嬉しかったのに、
その嬉しさよりも……
“自分が壊れていく怖さ”のほうが
勝ってしもうたんやと思う」
胸が痛いほど締めつけられる。
(父さん……そんな状態で……)
茉莉花は鼻をすすり、
手をぎゅっと握った。
「わたし、何回も言ったんよ。
“側におって”って。
“逃げんといて”って。
“家族三人でやっていこ”って……」
涙がぽろぽろ落ちる。
凛さんがそっとハンカチを差し出した。
茉莉花は受け取り、
小さく礼を言う。
「でも……
あの人は、自分自身に負けてしもうた。
“強くなれんかったら、二人を巻き込む”って……
そう言って、
泣きながら出て行ったんよ」
僕は息を飲んだ。
(逃げたんやなかった……
壊れたんや……)
胸がじんじんと痛むのに、
心の奥はどこか温かかった。
(父さん……
僕のこと……ほんまに愛してたんか)
涙がまたにじむ。
⸻
茉莉花は、
僕の手を包むように握った。
「大樹。
あんた、
自分のこと“弱い”って思ってるかもしれへんけど……」
「……」
「違う。
あんたは“強うなろうとしてる子”なんやよ」
僕の喉が熱くなる。
凛さんも、小さくうなずいた。
「そうですよ。
大樹さんは、
ちゃんと前を向こうとしてる」
僕はゆっくり息を吸い、
父の手紙を胸に抱いた。
そして――
震える声で言った。
「……僕、
もう逃げへん」
茉莉花が顔を上げる。
凛さんも息を止めた。
「父さんみたいに、
自分の弱さから逃げたりせぇへん。
怖いことあっても、
ちゃんと向き合う」
声は震えていたけど、
気持ちははっきりしていた。
胸の奥で、
カチっと何かが噛み合うような感覚がした。
凛さんが
そっと微笑んで言った。
「……大樹さん。
その言葉、ほんまに強いです」
茉莉花も涙を拭き、
ふっと笑った。
「ほら見てみ、大樹。
あんた……
あの人よりずっと強いわ」
僕は照れくさくて、
でも嬉しくて、
顔を少しうつむけた。
胸が熱い。
父の影は、
もう“暗さ”だけじゃなかった。
弱さと、
愛と、
過ちと、
願いが――
今は全部、僕の中の一部になった。
その夜、
外の虫の声が遠くで響きながら、
僕は初めて“未来”というものを
強く見つめた。
(第三十章 了)




