第三章 名前のない共同作業
午前の畑は、光が強くなる前の静けさがある。
昨日より体が軽いのは、単に慣れただけなのか、気持ちの問題なのか、自分でもよく分からなかった。
ばあちゃんは、もう畝の端で支柱を束にしていた。
「僕、こっち持ってこ。倒れへんように交差させるんや」
「交差?」
「ほれ。こうやって“風の道”つくるんよ。苗が折れんように」
ばあちゃんは手際がいい。
僕が支柱を持つと、ばあちゃんは迷いなく手を動かす。
その横顔を見ているだけで、作業の意味が分かってくる気がした。
土の匂い、風の向き、葉っぱの角度。
どれも、スマホの画面じゃ感じられなかったものばかりだ。
「ええか、僕。ここの結び目、ほどけんように」
「うん、こう?」
「そうそう! 飲み込み早いわぁ」
褒められると、やっぱり嬉しい。
ただ、胸の奥にひっかかりがひとつだけ残る。
――“僕”。
名前じゃない。
呼び名だけ。
昨日も今日も、そればかり。
考えまいとした瞬間、軽トラのエンジン音が聞こえた。
「おーい、僕! 今日は頑張っとるな!」
佐藤さんだ。
車を降りて僕に手を振ってくる。
「支柱立て、覚えたんか? ほうほう、ええ手つきやん!」
「ありがとうございます」
僕が言うと、佐藤さんは笑いながら続けた。
「ばあちゃんの言うとおり、僕は僕で器用なんやなぁ」
ふっと、胸がざわついた。
僕は僕で器用。
僕は僕で働く。
僕は僕で便利。
「僕」は便利だけど――僕じゃない。
言葉にするほどではないけれど、
昨日よりその感覚がはっきりしていた。
「よしえさーん、手貸してくれんかー」
離れた畑から声がした。
白い帽子をかぶったよしえさんが、スコップ片手に来る。
「おや、僕もおるんかいな。
若いもんがいてくれると助かるわぁ」
また“僕”。
よしえさんも、佐藤さんも、ばあちゃんも、母も。
誰も僕の“名前”を呼ばない。
この世界では、
僕は“僕”という役割で動いているだけなのかもしれない。
そんな気がして、指先が少しだけ土を強く握った。
「僕、こっちの苗も見てくれへん?」
ばあちゃんの声で我に返る。
「……うん」
作業に戻ると、雑草の隙間で小さな花を見つけた。
誰にも気づかれずに咲いている、小さな白い花。
「これ、なんて花?」
僕が尋ねると、ばあちゃんは目を細めた。
「ほたるぶくろや。風が好きな花なんよ。
ここにあるんは、風が通っとる証拠や」
風が通る。
その言葉に、昨日の凛の後ろ姿が一瞬よぎった。
さっき畑に来た短い出会いなのに、
彼女が笑ったときの声が、妙に耳に残っている。
「僕? どうしたんや」
「……ううん。なんでもない」
何でもないようで、何でもある。
そんな気分だった。
午後、作業がひと段落すると、
佐藤さんがペットボトルを渡してくれた。
「ほれ。働いたら飲め。
僕は熱中症だけは気ぃつけなあかんで」
僕は礼を言って飲みながら、ふと思う。
このまま、誰も僕を“僕”以外で呼ばへんかったら──
僕の名前は、どこ行ってしまうんやろ。
胸の奥に、小さな違和感が残ったまま、
一日はゆっくりと夕方に向かった。
(第三章 了)




