第二十五章「退院の日と、ばあちゃんの“最後の頼みごと”」
退院の日の朝。
病棟の窓から差す光はやわらかく、
ばあちゃんの頬にも健康な赤みが戻っていた。
ベッドの周りの荷物をまとめながら、
母は嬉しそうに笑っていた。
「ようここまで元気になったなぁ。
ほんま、心配したわ」
「そんなん言うたら、
あんたも泣きそうな顔してたで」
ばあちゃんが笑うと、
母も照れたように頬をかいた。
僕はその光景を見ながら、
胸の奥があたたかくなっていた。
(よかった……ほんまに)
ばあちゃんがここに戻ってくる――
それだけで、家の空気が変わる気がした。
⸻
手続きが終わり、
車で家に戻る。
玄関を開けると、
見慣れた畳の匂いと、
太陽の光で温められた木の匂いが混じって
懐かしい家の空気が広がった。
「帰ってきたでー!」
母が声を出すと、
部屋の中が一気に明るくなったように感じた。
ばあちゃんはゆっくり靴を脱いで
居間に上がる。
「家の匂いって……なんやあったかいなぁ」
その言葉に、
僕と母は思わず顔を見合わせて笑った。
少し休んでから、
母は食器棚の整理を始めた。
「ばあちゃん、しばらくは何もせんでええよ。
大樹がおるから」
「え、僕?」
「そうや。あんた、しばらく手伝うんやで」
急に言われて焦ったけど、
嫌ではなかった。
むしろ、
少し誇らしかった。
⸻
午後になり、母が買い物へ出た。
家には僕とばあちゃんだけ。
座布団に座ったばあちゃんは、
僕を呼んだ。
「……大樹」
「ん?」
ばあちゃんは、
いつもの笑顔とは違う表情をしていた。
柔らかいけど、
なにか奥にある。
「ちょっと、あんたに頼みたいことがあってな」
胸がぴくっと跳ねた。
(また……大事な話や)
僕は正面に座り直す。
「何?」
ばあちゃんは、
時間をかけるように言葉を選んだ。
「これから先……
もしうちに何かあったときは、
あんたに“あるもの”を任せたいんよ」
「……あるもの?」
「うん」
ばあちゃんは古い箪笥を指さした。
「この家に来たとき、
じいさんと一緒にしまったもんがあってな。
鍵のかかった引き出しがあるやろ?」
「ああ……開けたことないやつ?」
ばあちゃんは頷いた。
「中にはな……
“家族のこと”が全部入ってる」
胸がどくん、と鳴った。
「家族のこと……?」
「じいさんのこと。
あんたのお母さんのこと。
それから――
あんたの“お父さん”のことも」
一瞬、
時間が止まったように感じた。
(……父さんのこと?)
意識した瞬間、
呼吸が浅くなる。
ばあちゃんは静かに続けた。
「あんたがいつか知りたいと思ったとき……
その引き出しを開けなさい。
それまでは触らんでええ」
僕は言葉を失った。
“父さん”
聞いたことのない単語じゃない。
今までずっと避けてきた言葉。
母も、
僕の前ではほとんど口にしなかった。
ばあちゃんだけが、
その言葉を今、はっきり言った。
「なんで……僕に?」
声が震えていた。
ばあちゃんは微笑んだ。
「大樹が……
“前に進もう”って顔しとるからや」
胸が痛い。
それでいて、
どこか温かかった。
ばあちゃんは膝に手を置き、
そっと僕に言った。
「この家はな……
あんたの人生の一部や。
だから……
大事なことは、あんたに残したいんよ」
僕はゆっくり頷いた。
「……わかった。
僕が、ちゃんと受け取る」
声は震えていたけど、
気持ちは揺らいでなかった。
ばあちゃんは安心したように
目を細めた。
「それでええ。
心の準備ができたら……開けなさい」
その瞬間、
胸の奥が熱くなり、
何かが静かに動き始めるのを感じた。
⸻
夕方、玄関の方で足音がした。
「……大樹さん!」
凛さんの声。
僕とばあちゃんが顔を上げると、
凛さんが心配そうに立っていた。
「退院、おめでとうございます!
差し入れ持ってきました!」
僕のさっきまでの緊張とは裏腹に、
凛さんの明るさが
部屋にふっと春みたいな空気を運んできた。
ばあちゃんは微笑んで言った。
「あら、凛さん。
いつも大樹がお世話になってなぁ」
耳が熱くなる。
(ばあちゃん……!)
凛さんは照れたように笑い、
少し僕の方を見た。
その目が、
どこか温かかった。
(第二十五章 了)




