第二十章 ばあちゃんの回復と、凛さんのかすかな弱さ
病院の朝は、人の気配でゆっくり目が覚める。
廊下のワゴンの音。
看護師の靴音。
カーテン越しの柔らかい光。
僕と母が病室に入ると、
ばあちゃんは昨日よりはっきりと目を開けていた。
「……おはよう、大樹」
声はまだ弱いけれど、
その表情には力が戻ってきている。
母が嬉しそうに笑う。
「顔色、だいぶ良うなってるやん」
ばあちゃんは苦しそうな咳をひとつしたあと、
乾いた唇でゆっくり言った。
「昨日より、息が楽になったわ」
その言葉に胸の重さが少しほどけた。
(よかった……)
僕はばあちゃんの机に花瓶を置いた。
道の駅で買った小さな野花の束。
「綺麗やなぁ……。
大樹が選んだんか?」
「うん。ばあちゃん好きかなと思って」
ばあちゃんは目を細め、
その花をじっと見つめていた。
(ああ……生きてる)
そう強く思った。
⸻
診察のあと、
母が仕事の電話をするため一度家に戻った。
僕はひとりで畑へ。
少し風が強く、
夏の名残を含んだ湿気が肌にまとわりついた。
畑につくと、
昨日まで弱っていたつるが
太陽に向かって力強く伸びていた。
「……すごいな、お前ら」
思わずつぶやく。
(ばあちゃんが毎日見てた景色って……こういうことなんや)
畝を見ながら草を抜いていると、
遠くから軽い自転車の音が近づいてきた。
チリン……。
「……大樹さん?」
振り返ると、
凛さんが帽子を押さえながら歩いてくる。
白いシャツに薄いカーディガン。
風で揺れるスカート。
少し汗の光が頬に滲んでいる。
「凛さん」
胸がふっと熱くなる。
「昨日は電話、すみません……
急に連絡してしまって」
「いや……嬉しかったよ。ありがとう」
言うと、
凛さんは少し頬を赤くして笑った。
⸻
凛さんは畑の隙間を覗き込みながら言った。
「大樹さん……
ひとりでやってるんですか?」
「うん。まあ……できる範囲やけど」
「すごいですね。
いつもより畑、きれいです」
そう言いながら、
凛さんはしゃがんで小さな雑草を抜く。
その姿はいつもの明るい凛さんだけど――
なにか、違和感があった。
(……なんか、疲れてる?)
目の下に、
ほんの少しだけクマがあった。
普段気づかなかったけど、
今日はわかる。
僕はゆっくり聞いてみた。
「……凛さん、昨日……眠れへんかったん?」
凛さんの手が、
ほんの一瞬だけ動きを止めた。
それは、
無意識の“図星”の反応だった。
すぐに笑顔に戻ったけれど、
笑い方が少しだけ弱い。
「え? あ、いえ……。
仕事がちょっと立て込んでて」
無理に明るく言おうとしている声。
「それだけ?」
凛さんはそっと目を逸らした。
風が凛さんの髪を揺らす。
その影の中で、
小さな本音がこぼれた。
「……大樹さん、昨日……
“怖い”って言ったじゃないですか」
「……ああ、うん」
あの夜の震えた声が胸に蘇る。
凛さんは畑の土を見つめたまま、
ゆっくり言った。
「……あれ聞いてから、
なんか胸がぎゅっとして……
寝つけなかったんです」
僕は言葉を失った。
「……それって……」
「心配しただけですよ?」
すぐにそう付け足して、
凛さんは笑った。
でもその声は、
いつもよりほんの少し揺れていた。
弱さを隠すための笑顔。
(ああ……
この人、俺のこと……)
胸が熱くなる。
守りたい――
そう思える感情が、
胸の奥で優しく膨らんだ。
「凛さん」
名前を呼ぶと、
凛さんは驚いたように顔を上げた。
「無理したらあかんよ。
しんどいときは……言ってな」
言葉の後半、
ふと“僕”から“俺”の声が混じった。
凛さんは一瞬きょとんとして、
次の瞬間、
ふっと柔らかく微笑んだ。
「……はい」
その返事は、
これまでで一番やさしい声だった。
風が吹き、
畑の葉っぱがさわさわと揺れる。
その音が、
二人の沈黙を包み込んだ。
(第二十章 了)




