第二章 畑の初仕事と、風の読み
朝、窓を開けると、ひんやりした空気が顔に触れた。
昨日より少しだけ軽く感じる空気だった。
階段の下から、ばあちゃんの声が飛んでくる。
「僕。起きとるか? 朝の風は逃したらあかんで」
僕は返事をして階段を降りた。
台所では母が湯気の立つ味噌汁をよそいながら言う。
「アンタ、今日も畑手伝いしなよ。
ばあちゃん、ひとりやと大変やし」
「……分かった」
自分でも驚くほど、素直に言えた。
朝ごはんを終えて外に出ると、
ばあちゃんはもう畝のそばに立っていた。
「僕、こっちおいで。今日は“風”から教えたる」
風?
僕が近づくと、ばあちゃんは空を見ながら言った。
「今日は南風や。ほら、頬で感じてみ」
そう言って、僕の頬に軽く手を添える。
手を離すと、風がその線をなぞるように流れた。
「あ……ほんまや。南から来とる」
「そやろ。苗はな、風に逆らわんように植えるんや。
風と仲ようしたら、苗は勝手に育つ」
土の匂いと朝の湿気が鼻に届く。
ばあちゃんの言う“風の読み方”は不思議だったけど、心地よかった。
ばあちゃんは苗をひとつ渡す。
「僕、これ植えてみ」
僕は膝をついて、指で小さな穴を掘った。
土はひんやりしていて、触ると落ち着く。
苗を入れて、そっと土を寄せる。
「ええやんか。
僕はこういうの、向いとるわ」
褒められると胸の奥が少し温かくなる。
スマホの画面では絶対に味わえない温度だ。
そのとき、軽トラのエンジン音が近づいた。
「おーい、僕! 朝からエエ顔しとるやん!」
農協の佐藤さんだ。
また“僕”で呼ばれた。
でも昨日ほど違和感はない。
僕は軽く会釈を返した。
ばあちゃんは笑いながら言う。
「この子、やればできる子やねん」
僕は少し照れた。
すると――。
「ごめんくださーい!」
細い道の向こうから若い女性の声がした。
白いシャツにジーンズ、手には回覧板。
近所に住む“凛”というらしい。
「あ、ばあちゃん。回覧板です」
ばあちゃんが受け取りながら言う。
「ありがとうねぇ、凛ちゃん。
仕事忙しいやろに」
凛は笑って首を振った。
そして畑でしゃがんでいる僕を見て、
少し驚いたように目を丸くする。
「えっ……ばあちゃんとこに、若い人おったんですね」
「うちの“僕”や」
その言葉に、凛はくすっと笑った。
「“僕”さん、なんですね。
かわいい呼び方やなぁ」
僕は思わず目をそらす。
恥ずかしいのに、不思議と嫌じゃなかった。
凛は軽く会釈して帰っていく。
その後ろ姿の髪が、朝の風でふわっと揺れた。
ばあちゃんが僕の肩を軽く叩く。
「さ、僕。次は支柱立てやで」
「うん」
土の感触にも風の向きにも、少し慣れてきた気がした。
“僕”と呼ばれながらも、不思議と心が軽くなっていく。
――ただ、その胸の奥で。
さっき凛が僕を見たときの視線が、
妙に残ったままだった。
(第二章 了)




