第十八章 病院での再会と、ばあちゃんの願い
病院の廊下は朝の光が差し込み、
白い床にぼんやり反射していた。
消毒液の匂い。
機械の規則正しい電子音。
誰かの咳が遠くで聞こえ、
靴の底が床に吸いつくような音が響く。
母と並んで病棟へ向かうと、
エレベーターの扉が開くたび
冷たい空気がふわりと流れ込んだ。
「昨日より……元気やとええな」
母の声は、小さく細かった。
「うん。
昨日よりは……きっと良くなってると思う」
そう言いながらも、
胸の奥のどこかがずっと緊張していた。
⸻
病室のドアをそっと開けると、
薄いカーテン越しの光の中で、
ばあちゃんが横になっていた。
昨日より顔色は少しだけ良い。
唇にも少し赤みが戻っていた。
「ばあちゃん……」
僕が声をかけると、
ばあちゃんはゆっくり目を開けた。
乾いた瞳が少し揺れて、
こちらを捉える。
「……大樹。
来てくれたんか」
その声はまだ弱いけれど、
昨日よりずっと柔らかかった。
母がベッドのそばに行くと、
ばあちゃんは少し眉を寄せた。
「……あんたも、仕事から帰ったんか」
「帰ってきたよ。
大樹が頑張ってくれてな」
母はそう言って、僕の方へ軽く目をやった。
ばあちゃんは、
ゆっくり僕の手を取った。
その手はまだ冷たかったけれど、
握り返す力は昨日より確かだった。
「……大樹、昨日は……すまんかったな。
しんどい思いさせて……」
「そんなん……全然や。
俺、ばあちゃんのこと……ちゃんと連れてこれてよかった」
小さく笑うと、
ばあちゃんも息を吐くように微笑んだ。
母はベッドの横で、
胸に手を当ててほっとした顔をしていた。
「ほんま……元気になりかけててよかった。
昨日は生きた心地せんかったわ」
ばあちゃんは母の方へ目を向ける。
「……あんたまで泣きそうな顔して……
うちはまだ死なんわ」
母は照れくさそうに笑った。
⸻
看護師が入り、点滴の量を調整する。
ばあちゃんは軽く咳をしたあと、
ゆっくり天井を見つめた。
その表情がどこか遠く、
少しだけ影を落として見えた。
「……大樹」
また僕を呼ぶ。
「なに?」
「……言いたいこと、あるんやけどな」
僕は息をのんだ。
昨日も同じことを言って、
“元気になってから言う” と濁したばあちゃん。
今日は、
その言葉の続きが聞ける気がした。
ばあちゃんは、
カーテン越しの光を目に受けながら
ゆっくり口を開いた。
「……うち、ずっと思ってたんや。
大樹には……」
そこまで言って、
看護師が再びカーテンを開けて入ってきた。
「すみません、採血しますねー」
空気がふっと切れる。
ばあちゃんは言葉を閉じ、
ほんの少しだけ笑った。
「……続きは、また今度にするわ」
大樹の胸の奥で、
なにかが小さく引っかかったまま残った。
(また今度……って……
なにを言おうとしたんやろ)
母が病室を出るとき、
小声で言った。
「大樹、
ばあちゃん……あんたに言いたいことあるんやな」
「うん……そんな気がする」
廊下の窓から見える空は、
雲がゆっくり流れて
陽射しが少し温かかった。
でも胸の奥の、
“言えなかった言葉”の空洞は、
まだ静かに残ったままだった。
(第十八章 了)




