第十七章「ばあちゃん不在の夕食と、凛の差し入れ」
病院から帰ると、
家の中には夜の冷えた空気が満ちていた。
電気をつけても、
そこにいるのは僕と母だけ。
ばあちゃんがいつも座っていた座椅子は空のまま。
急須の中の茶葉は乾き、
湯呑みは布巾の上で静かに伏せられていた。
「……大樹、ちょっと座っててな。
簡単なもん作るわ」
母が台所でエプロンを結ぶ。
包丁の“トントン”という音が、
久しぶりに家の中に響いた。
いつもならばあちゃんの鼻歌や咳が混ざるはずの音。
でも今日は、それがない。
(なんか……すごく静かやな)
その“静かさ”は、
僕の胸の奥のどこかをひんやり冷やした。
⸻
ご飯がほぼ出来上がろうとした頃。
コン、コン。
玄関をノックする音がした。
こんな時間に誰やろ、と
母と顔を見合わせる。
僕が玄関に向かい少しだけ扉を開けると――
「こんばんは、大樹さん」
息を弾ませた、優しい声。
外に立っていたのは 凛だった。
薄いピンクの袋を両手で抱えて立っている。
街灯が髪をふわりと照らし、
頬が少し赤く見えた。
「……凛さん?」
「差し入れ……持ってきました」
袋を差し出す手が、
ほんの少しだけ震えていた。
⸻
靴を脱いで上がってきた凛さんを見て、
母が驚きながら笑顔を向ける。
「まあ、凛さん。
こんな時間にありがとうねぇ」
「いえ……大樹さん、
ばあちゃんのことで大変やって聞いて……」
袋の中には
・煮物
・きんぴら
・卵焼き
・ほうれん草の白和え
ほのかに湯気が残っている。
「総菜屋さんで買ったんですけど……
大樹さん、食べれてないんじゃないかなと思って」
僕は胸がきゅっとなった。
(俺……そんなふうに思われてたんや)
嬉しいのに、
うまく言葉にできない。
母は笑って言った。
「凛さん、気が利くなぁ。
この子、ほんま食べてへんかったから」
「母さん! ちょっと言いすぎやろ……」
凛は小さく笑った。
「よかった……。
渡せて、安心しました」
⸻
三人で食卓を囲むことになった。
煮物を開けた瞬間、
ふわっと甘い匂いが広がる。
卵焼きは黄色くてやわらかく、
白和えは優しい味の色をしていた。
湯気が広がるだけで、
家の空気がほんのり温かくなる。
大樹はそっと箸を伸ばした。
一口食べた瞬間――
胸の奥がじわっとほどけた。
「……うまい」
つい声に出る。
凛はほっとしたように、
両手を胸の前でぎゅっと握った。
「よかった……!
冷めてないか心配で……」
母も頷く。
「凛さん、ありがとうなぁ。
ほんま助かったわ」
僕は、
湯気の向こうで笑う凛を見ながら言った。
「……ありがとう、凛さん。
ほんまに、助かった」
その言葉は、
自分でも驚くほど素直だった。
凛は、
少しだけ赤くなった頬を隠すように視線を落とした。
「いえ……大樹さんが、
ひとりで抱えこまんように……って」
胸の奥で、
小さな何かが静かに灯る感覚がした。
⸻
帰り際、
母が玄関まで送る。
「凛さん、また来てね。
この子、素直やないから」
「母さん!!!」
凛さんはくすっと笑った。
「はい。また来ます」
風が吹いて、
凛の髪がふわりと揺れた。
その光景が、
大樹の胸にずっと残った。
扉が閉まると、
家はまた静かになったが――
さっきより、
ずっとあたたかい静けさだった。
(第十七章 了)




