第十六章 母の帰宅と、叱られて、撫でられて
夕方。
畑を見終えて家に戻ると、
やっぱり静かだった。
朝よりも、
もっと静か。
時計の“コツコツ”という秒針の音が、
部屋の隅に響いて反射する。
居間に置かれたままの布団。
枕のくぼみ。
ばあちゃんが触れていた湯呑み。
ひとつひとつが、
“誰もいない”という事実を示していた。
僕は椅子に座り、
ぼんやり天井を見上げた。
(俺……ほんま、ひとりやな)
深いため息を落としたとき。
――ガラガラ。
玄関の引き戸が開く音がした。
砂利を踏む足音。
続いて、懐かしい声。
「……大樹?」
思わず立ち上がった。
「母さん?」
玄関に行くと、
出張用のキャリーケースを持った母が立っていた。
スーツの袖は少しシワになり、
髪も乱れている。
疲れた目の下には薄いクマ。
でもその目は、
まっすぐ僕を見つめていた。
母は靴を脱ぐなり、
ゆっくりと僕のほうへ歩いてきた。
そして――
何も言わずに僕の頭に手を伸ばした。
指先が髪の中に入り、
そっと撫でる。
ゆっくり、優しく、
小さいころと同じリズムで。
「……怖かったやろ?」
その声は、
母の胸の奥からこぼれたみたいに震えていた。
とっさに目をそらす。
「……まあ……ちょっとな」
母はもう一度、
僕の頭をくしゃっと撫でた。
撫でられるたび、
ずっと張りつめていたものが
少しずつ緩んでいく。
「ばあちゃん倒れて、
ひとりで病院連れてって……
どれだけ不安やったか……考えるだけで胸痛かったわ」
母の目が潤んでいた。
僕は息を吸い、
しぼり出すように言った。
「……大丈夫やったよ。
なんとか、できたから」
すると母は、
一瞬だけ頷いたあと――
ふいに表情を引き締めた。
「でもな、大樹」
手を腰に当て、
声が少し鋭くなる。
「入院の連絡、遅すぎる。」
胸にズキッとくる。
「私が移動中にスマホ見たとき、
ほんま足震えたんやで?」
怒鳴らない。
でも深く刺さる声。
「……ごめん。
どう伝えたらええかわからんで……
病院行くので頭いっぱいで……」
言い訳のような言葉が途切れる。
母はゆっくり息を吐いた。
そして次の瞬間、
ふっと口元をゆるめた。
「……まあ、ええわ。
元気になってきてるって聞いて安心したし。
大樹がおらんかったら、
ばあちゃんほんまに危なかったと思う」
母はにっこり笑った。
「よく頑張ったな。
ありがとう、大樹」
胸の奥がじんと熱くなる。
「……うん」
自分でも驚くほど小さく返事した。
母は台所に向かいながら、
「ほな、今から病院行こ。
今日の様子、直接見てこよ」
その背中は、
見慣れた“母”の背中だった。
家の静けさが、
少しだけ柔らかくなった気がした。
(第十六章 了)




