第十四章 病院の夜と、どうしても言えなかったこと
病院の自動ドアが、
低い機械音を立てて開いた。
外とはまったく違う、乾いた冷たい空気が
胸の奥にすっと入ってくる。
アルコールの匂い。
床に反射する白い光。
どこか遠くで鳴る機械の電子音。
その全部が、
今日の僕には鋭く感じられた。
「大樹……すまんなぁ……」
ばあちゃんは
いつもの冗談のような調子ではなく、
掠れた、細い声で言った。
「すまんとかええねん。
ばあちゃんがしんどいのが一番あかん」
自分の言葉なのに、
どこか震えて聞こえた。
⸻
受付で事情を話すと、
すぐに車椅子を持ってきてくれた。
ばあちゃんを座らせると、
背中が少し丸くなっているのが分かる。
「息、苦しいですか?」
受付の人が聞くと、
ばあちゃんは小さくうなずいた。
胸がひゅっと縮まる。
「こちらへどうぞ。すぐ診察しますね」
車椅子が動くたび、
その小さな揺れが、
僕の心まで揺さぶってくるようだった。
⸻
診察室に入ると、
医者は落ち着いた声で言った。
「はい、おばあちゃん。深呼吸しますよ」
ばあちゃんの胸と背中に聴診器を当てて、
何度も何度も呼吸の音を確かめる。
その間、
僕は固まったみたいに何も動けなかった。
手を組む指先だけが、
かすかに震えていた。
医者は聴診器を外し、
こちらに向き直った。
「まず熱が高いですね。
呼吸も浅くて、胸の音に“ゴロゴロ”“ゼイゼイ”が混ざっています」
僕はごくりと唾をのむ。
医者の表情は、
怖がらせないように気を遣っているのが分かった。
「これは、肺の中で炎症が起きているときの音です。
初期の肺炎、もしくは肺炎の一歩手前の状態ですね」
ばあちゃんの肩が
ゆっくり沈んだ。
僕の心も一緒に沈んだ。
「ご高齢の方は、体力が落ちていると悪化が早いです。
熱が高い、息が浅い、咳が深い――
この三つが揃うと、家で看るのは危険です。」
僕は小さい声で聞いた。
「……家で寝てても、治らない、ってことですか?」
医者ははっきりうなずいた。
「ええ。
点滴と酸素で呼吸を助ける必要があります。
今日、このまま入院したほうが安全です。」
ばあちゃんの目が少し揺れた。
「大げさやわ……」
そう言ったけれど、
声にはまったく力がなかった。
医者はやさしい口調で続ける。
「おばあちゃん、
呼吸が苦しいときは夜中に状態が悪くなることがあります。
入院して治療すれば、数日で楽になりますよ」
「……そうなんか」
ばあちゃんは薄く目を閉じて、
小さくうなずいた。
その姿が、
僕の胸に刺さった。
僕は思わず言った。
「お願いします……
入院させてください」
⸻
処置室で点滴が始まる。
透明な液が落ちていく“コトッ、コトッ”という音と、
機械のわずかなモーター音。
白い蛍光灯が
ばあちゃんの頬を青白く照らしていた。
それが、
すごく細く見える。
「大樹……」
「ん?」
ばあちゃんは弱い声で言った。
「……怖いわ。
こんな、息できひんようなんの……」
胸が痛くて、
呼吸を大きくすると涙が出そうになった。
「大丈夫。
ここで治るから。
俺がおるから」
手を握ると、
ばあちゃんの指がかすかに動いた。
弱いけど、
確かに返してくれた。
⸻
看護師さんが部屋の準備をしてくれている間、
僕たちは処置室の隅で静かに過ごした。
その静けさの中で、
ばあちゃんがぽつりと言った。
「……大樹。
言うときたいこと、あるんやけどな」
「今、言ってよ」
ばあちゃんは首を横に振った。
「……元気になってから言うわ。
治ってから言いたい」
そう言って、ゆっくり目を閉じた。
その“治ってから”という言葉が、
胸の真ん中にずっと残ったまま、
僕は動けなくなった。
病室の時計が
静かに“コトリ”と鳴る。
その小さな音だけが、
夜の中でやけに大きかった。
(第十四章 了)




