第十三章「ばあちゃんの悪化と、走り出す大樹」
夕方。
収穫会の帰り道、畑の横を歩くと、
まだ湿った土の匂いがゆっくりと鼻に入ってきた。
空は薄いオレンジ色。
雲の切れ間から光がこぼれて、
濡れた葉っぱがきらきら光って見えた。
「……ばあちゃん、喜ぶかな」
胸の奥でふわっと浮かぶ期待。
名前を、自分の口から言えたこと。
みんなが拍手してくれたこと。
凛が僕の名前を呼んでくれた、
あの柔らかい声。
伝えたくて、胸が少し熱くなる。
⸻
家に近づくと、
いつもより静かだと気づいた。
玄関の引き戸をゆっくり開けると、
家の中にこもった空気が、
ぼうっと顔にまとわりつく。
湿気の気配。
味噌と生姜がうっすら残っている匂い。
「ばあちゃん?」
靴を脱ぎながら呼びかける。
返事はない。
嫌な予感が、
風より早く背中を撫でていった。
⸻
居間の襖を開けると、
布団に横になったばあちゃんの肩が
かすかに上下していた。
「ばあちゃん……?」
近づいた瞬間、
胸がぎゅっと縮まった。
呼吸が浅い。
吸うたびに喉がかすれて、
苦しそうな音が漏れる。
額に触れると、
手のひらに“熱”が吸い付くように伝わる。
「……ばあちゃん、熱すぎる」
ばあちゃんは薄く目を開けたが、
焦点が合っていなかった。
「……大樹、帰ってきたんか……」
声が弱い。
いつものばあちゃんの声じゃない。
「ばあちゃん、しんどいん?」
「……ちょっとな。身体が……思うように動かへん」
言葉を絞り出すような口調だった。
背筋が冷える。
今日の昼までの“しんどい”とは違う。
これは──悪いほうへ進んでいる。
⸻
「ばあちゃん、水飲める?」
「……ちょっとだけ」
湯のみを持って支えようとすると、
ばあちゃんの手が震えて
湯のみのふちがカチカチと当たった。
こんな細かい震え、見たことがない。
水が喉へ落ちるたび、
ばあちゃんは苦しげに息を吐いた。
「……大樹。あんた……
よう頑張っとるな……」
「そんなことより、ばあちゃん……!」
声が出る前に詰まる。
視界がじんと熱くなる。
「病院、行こ。もう無理や。
ばあちゃん、自分じゃ歩かれへんやろ」
ばあちゃんは静かに目を閉じた。
「……あんたが……決めてくれ」
その一言に、
心臓がドクンと強く鳴る。
今まで全部誰かに決めてもらっていた“僕”が、
いま初めて、“自分の判断”を求められている。
逃げたくない。
逃げたら一生後悔する。
「行く。今すぐ行く」
大樹の声は震えていたが、
はっきりしていた。
⸻
着替えを用意しようと押し入れを開けると、
古い防虫剤の匂いがふわっと広がった。
タオルを掴む手が滑り落ちそうになる。
胸がざわざわして、指が思うように動かない。
でも止まれない。
(落ち着け……落ち着け……)
何度も心の中で呟く。
バッグに
・タオル
・替えの下着
・保険証
・いつも飲んでる薬
全部入れた。
ばあちゃんの胸は規則的に動いているのに、
その間隔が短くて呼吸が追いついていない。
「ばあちゃん、行くで」
「……頼むわ……大樹」
名前を呼ばれたその声が、
なんだか一瞬だけ切なくて、
それが逆に力になった。
⸻
車までばあちゃんを連れていくとき、
足がもつれて倒れかける。
僕は慌てて抱きとめた。
ばあちゃんの体が信じられないくらい軽い。
「大丈夫、大丈夫やで」
誰に言っているのか分からなかった。
ばあちゃんにか、それとも自分にか。
助手席に座らせ、
シートベルトをゆっくり通して留める。
指先が震える。
でも止まらない。
⸻
エンジンをかけると、
車の振動が心臓の鼓動と重なった。
(早く……早く……)
アクセルを踏む足に力が入る。
ばあちゃんの横顔を横目で見ると、
目を閉じて静かに息をしていた。
「ばあちゃん……大丈夫やからな。
俺が連れてくから」
自分で言いながら、
胸に熱いものがこみあげる。
今日、僕は“僕”じゃなくて、
“大樹”としてここにいる。
母がいなくても、
誰にも頼れなくても、
――ばあちゃんを守れるのは、今は僕しかいない。
強く、強く、そう思った。
(第十三章 了)




