第十一章 “大樹くん”と呼ばれる日
朝。
玄関を開けると、昨日までと違う空気が広がっていた。
空は明るく澄んでいて、
風の温度はほんのり冷たくて、
まるで季節が一歩だけ進んだみたいだった。
ばあちゃんはまだ布団の中にいる。
熱は少し下がったが、咳は続いている。
「大樹……無理せんでええからな」
「大丈夫。畑、見てくる」
“僕”ではなく“大樹”。
その呼び方にまだ慣れていない。
けれど胸の奥は、微かに温かくなる。
長靴を履きながら深呼吸すると、
今日の空気は昨日より吸いやすかった。
⸻
畑に向かうと、
佐藤さんがもう作業を始めていた。
「おはようございます」
声をかけると、
佐藤さんが振り返って笑った。
「おお! 大樹くん、ええ朝やな!」
その“くん”が自然すぎて、
思わず足が止まる。
(僕……じゃない)
「今日はな、ここの誘引やり直しや。
大樹くんの手、借りてもええか?」
「……はい!」
胸の奥がじんと熱くなる。
呼ばれただけなのに――
こんなに嬉しいのはなんでなんやろ。
⸻
さらに作業をしていると、
よしえさんがスコップを持ってやってくる。
「おはよう、大樹くん!
昨日は大変やったなぁ」
よしえさんまで“くん呼び”。
三人で作業をしていると、
ふいに誰かが畑の端から手を振った。
凛だった。
白いシャツにカーディガン、
手には回覧板。
「おはようございます、大樹さん!」
昨日より近い声。
昨日より柔らかい笑顔。
僕は反射的に返した。
「おはようございます」
声が少し震えた。
凛は僕の手元を見て、
「昨日より手つき、慣れてはりますね」
「そ、そうですか?」
「はい。なんか……板についてる言うか」
言葉の選び方がやさしい。
声がまっすぐで、ちゃんと僕に届く。
今まで“僕さん”と言われていたときとは違う感覚が胸に広がる。
(……名前で呼ばれるって、こんな感じなんや)
凛は軽く会釈して去って行った。
風が吹くたび、
呼ばれた“だいきさん”が胸に反響した。
⸻
作業の休憩中、佐藤さんが言った。
「しかし、大樹くんは飲み込み早いな。
やっぱ若いもんはちゃうわ」
「僕でええですよ。
……あ、いや、“大樹”で」
自分で言って照れた。
こんなやりとり、今までしたことがない。
よしえさんが笑う。
「何言うてんの、大樹くん。
名前で呼ぶほうが似合うで。
“僕”って呼び方は、ばあちゃん専用や」
その言葉に、
胸の奥がふっと軽くなった。
(……僕の名前が、ちゃんとここにある)
呼び名が変わるだけで、
畑の景色まで違って見える。
風が吹くたび、
“大樹”が風に泳いでいるみたいに感じた。
⸻
作業を終えて家へ戻ると、
ばあちゃんが起きてこちらを見ていた。
「……どうやった?」
「みんな……俺のこと、“大樹くん”って呼んでくれる」
ばあちゃんは
ゆっくりと、嬉しそうに笑った。
「それでええんや。
あんたの名前は“大樹”や。
“僕”は、うちだけの呼び方でええ」
僕は少しだけ目をそらした。
「……なんか、まだ慣れへんけど」
「慣れんでええ。
大樹として生きていくのは、
今日からのことやからな」
その言葉に、
胸の奥がじわっと熱くなった。
⸻
夕方、ひとりで外に出ると、
風がさわさわと葉っぱを揺らした。
名前で呼ばれる世界は、
こんなにも景色が違って見えるんや。
でも――
その新しい世界に、自分がちゃんと立てるのか。
期待と、
少しの不安と、
胸の真ん中が少し震えた。
「……大樹、か」
自分の名前を、小さく口にしてみた。
風がそれを運んでいく。
その音が、
なんだか心地よかった。
(第十一章 了)




