第十章「初めて聞かれる名前、そしてばあちゃんが先に答えた日」
数日ぶりに太陽が出た。
雨のあとの空気は軽くて、風の向きも素直だった。
ばあちゃんの熱はまだ引ききらないけれど、
昨日より少し表情が明るい。
「僕……今日は、畑、どやった?」
「なんとか。佐藤さんが手伝ってくれた」
「そっか……あの人、ほんまええ人や」
会話をしながら、ばあちゃんは咳をこらえる。
まだ無理させたらあかん。
「今日は僕、一人で畑いくから。
ばあちゃんは休んでて」
「頼もしいなぁ……」
ばあちゃんはゆっくり微笑んだ。
⸻
畑へ向かうと、
よしえさんがスコップを持ってやって来た。
「あんた……じゃなくて、僕!
今日はうちも手ぇ貸すわ」
「ありがとうございます」
僕が頭を下げると、
よしえさんは手を止めて、ふと首をかしげた。
「そういえばあんた……
名前なんて言うん?」
心臓が跳ねた。
この田舎で、誰かから“名前”を聞かれたのは初めてだった。
「えっと……」
答えようと口を開いた瞬間――
家の縁側から、
ばあちゃんの声が飛んできた。
「この子の名前は……」
ゆっくりと、
はっきりと。
「――大樹。
うちの自慢の孫や」
言われた瞬間、
胸の奥に鋭いものが刺さった。
あ……
僕より先に、
名前を言われた。
なにも間違ってない。
ばあちゃんが僕の名前を知ってるのは当然だ。
でも――
“僕の口”から出た名前じゃなかった。
胸の奥に広がるのは、
痛みとも、恥ずかしさともつかない、
なんとも言えない感情だった。
よしえさんが笑う。
「へぇ、ええ名前やん。
大きい樹の“大樹”。しっくりくるで」
「そ、そうですか……」
褒められているのに、
胸の奥がくすぐったくて、苦しかった。
ばあちゃんは縁側につかまりながら、
もう一度ゆっくり言った。
「大樹。
風にも負けへん、よう育つ子や」
その声は誇らしげで、
温かくて、
やさしかった。
なのに――
僕は呼ばれた瞬間、ひどく困惑した。
(なんなんやろ……この気持ち……)
初めて名前を“外へ”出されたのに、
受け取り方が分からない。
胸の奥で、
名前が静かに震えていた。
⸻
そのあと佐藤さんもやって来て、
「ああ、大樹くんか! ええ名前やな!」
と言って笑った。
よしえさんも、
「ほな今日から“大樹くん”って呼ぶわ」
と明るく言った。
みんなが自然に僕の名前を使ってくる。
呼ばれるたびに、
胸の中で何かが動いた。
嬉しいのに、 嬉しいだけじゃない。
誇らしいのに、 息が詰まりそうでもあった。
“僕”ではなく“名前”で呼ばれる世界が、
急に目の前に広がっていく。
⸻
作業の途中、
ふと凛が畑の前を通った。
こちらを見ると、
少し驚いたように微笑む。
「あ……大樹さん。
今日もお手伝いしてるんですね」
胸が大きく鳴った。
今まで“僕さん”だった凛が、
初めて僕の名前を呼んだ。
その声は、
風の音と混ざって胸の奥に落ちた。
僕は小さく返事した。
「今日から……その、名前で呼ばれることになって……」
凛はふっと優しく笑う。
「ええ名前ですよ。
大樹さんらしい」
その一言が、
どんな褒め言葉より温かかった。
⸻
夕方、作業を終えて家に戻ると、
ばあちゃんが布団の中でこっちを見ていた。
「大樹」
名前で呼ばれた瞬間、
胸がじわっと熱くなる。
「ごめんな。
先に言うてしもて」
ばあちゃんは、
申し訳なさそうに笑った。
僕は首を横に振った。
「……ううん。
ちゃんと聞こえたよ。
僕の名前」
言葉にした瞬間、
胸の奥の何かがほどけた気がした。
ばあちゃんは目を細めて言う。
「大樹。
あんたは、ほんまにええ名前やで」
その声が、
僕の一日の疲れをすべて溶かしていった。
(第十章 了)




