開けて
浴室の棚で、見覚えのない入浴剤を見つけたのは──夏の夜だった。
仕事でぐったり疲れて帰った私は、久しぶりに湯船にお湯を張ろうとしていた。
その時、棚の奥に青緑色の粉末が入った袋を見つけたのだ。
ラベルはかすれていて読めない。
「……いつ買ったんだろう。まあ、いいか」
私はそれを湯船に入れた。
青い煙のような湯気が立ちのぼり、甘い香りが浴室を満たしていく。
湯船に体を沈めると、じわじわと筋肉がほぐれるようで心地よかった。
──その時だった。
湯気の奥に“何か”の気配を感じて、はっと顔を上げた。
曇ったガラスの向こう、誰かと目が合った……気がした。
だが、そこには私しかいなかった。
「……気のせい、だよね」
自分に言い聞かせても、心臓が早鐘を打っている。
さらに、お湯が妙にぬるく感じる。
冷たさが指先をなぞり、私は肩をすくめた。
次の瞬間──湯船の底が抜けるような感覚に襲われた。
「っ……!」
慌てて立ち上がると、水は膝下までしかない。
浴槽も床も、何もおかしなところはなかった。
「……もう出よう」
そう思った瞬間、足首を掴まれた。
「きゃあっ!」
冷たい骨ばった手が、ぐいと私の足首を締め付ける。
必死に足を引き抜き、私は湯船の栓を引いた。
ゴポゴポと音を立てて水が流れ出す。
早く、早く全部抜けてくれ──!
……その時、排水口の奥で“目”が合った。
暗い穴の奥、ギラリと光る目が、こちらを見上げていた。
「いやあああっ!」
私は浴室から転がるように逃げ出した。
だがすぐに──ベランダの外からコツン……コツン……と窓ガラスを叩く音がした。
恐る恐る振り向くと、外に“何か”が立っていた。
人の形をしているのに、輪郭がはっきりしない。
「……開けて」
耳元で声がした。
息がかかるほど近く、冷たい声だった。
私は絶叫した。
気がつくと、部屋の床に倒れていた。
窓は閉まっており、浴室も静かで、外も内も“誰もいない”。
夢だったのかもしれない。
だが──窓ガラスに水滴でできた手形が残っていた。