生を食む
昔考えていたことを敢えて起こしてみました
安心、安寧、安堵、安泰。
それらは人が作り出した最も甘い幻想だ。
陶酔だ。自分の中だけで完結する、都合のいい夢である。
信じてしまう所為で、足元が崩れたときに耐えられない。
叶ってしまうから、期待が生まれ、欲望が育ち、また不満を呼び込む。
人は、わたしは、そんな循環に脳を削られ、心を摩耗させている。
自然界に安らかな状態などない。
それはあってはならないものだ。
草を食む鹿の首筋には、常に獣の気配がある。
小鳥のさえずりの裏には、雨の一粒で崩れる巣の不安定さがある。
どれもが生への恐怖と実感だ。
生とは花火のようだ。
一瞬だけ、激しく、美しく、そして散る。
それでいい。むしろそれが本来のかたちだ。
種としての本能を全うする。ただそれだけで、十分ではないか。
「安らかでいたい」なんて祈りは、余計なものだ。
そこに願いを込めるから、叶ってしまったときに人は鈍くなる。
感情と情報が渦を巻き、意味のない争いが増える。
安らぎのために、人はヒトを消すことすらある。
そんな世の中が続いていいわけがない。
だから、わたしは「不安」に手を合わせる。
それは正しい。
それは、生きている証だと声を挙げる。
手のひらに残る震え、胸に走る動悸、
それこそが、今を生きているということ。
「安らかに」と誰かが言うとき、
その裏にある虚無に、わたしは自身の青さと投影して少しだけ笑ってしまう。