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夕暮れ色の瓶


 

 ********

 

 

 翌々日。

 本来アンムート宅に再び訪ねようとしていた一昨日の午後はディードリヒと喧嘩して潰れてしまったので、結局日を跨いだ。


 そんな中、リリーナは見つけた香水を持ってアンムート宅のドアを叩く。

 ドアはすぐノックに反応したソフィアの手によって開かれ、互いに軽く挨拶を交わした。


「こんにちは、リリーナ様」

「ごきげんよう、ソフィア」


 ソフィアの案内で家の中に入る。今日もミソラは話さなくてもそばにいついていた。なんせリリーナの筆頭護衛は侍女である彼女である故に。


「おにいはいま近所のおばあちゃんの手伝いに行ってるからいないんですけど」

「そうなんですの?」

「おばあちゃん腰悪いから重いもの持てなくて…」

「大変ですわね」


 なんて世間話をしつつまた用意してもらったコーヒーと共にソファに腰掛ける。そこでリリーナは早速本題と言いたげに持ってきた香水をローテーブルに置いた。


「約束していた香水…それらしいものを見つけましたのでお持ちしましたわ」


 コトリ、と小さな音を立てて置かれた香水を、ソフィアは食い入るように見ている。


「見た目はこのようなもので間違いないでしょうか?」


 リリーナの質問に、ソフィアは「うーん」と考える仕草を取ってまた瓶を見つめた。


「正直見た目はあやふやなところがあって…こんな感じの丸みだったように思うんですけど。あ、でも色はこんな感じです」

「では肝心の香り…ですわね」


 リリーナは懐からハンカチを取り出す。少し緊張したような間を置いて、ハンカチに香水を数回噴いた。

 その瞬間に、甘い香りが部屋に漂う。


「あ…」


 ソフィアが、すぐに表情を変えた。

 少しだけ泣きそうな彼女は、リリーナの持つ物を求めて手を伸ばす。


「リリーナ様、そのハンカチ借りていいですか?」

「えぇ、どうぞ」


 リリーナがハンカチを差し出すと、受け取ったソフィアはゆっくりとその香りを嗅いだ。何度か確認するように深呼吸を繰り返すその体は、少しばかり震えて見える。


「…どうかしら?」


 リリーナは静かに、ソフィアの邪魔をしないよう気をつけながら問う。その質問に答えるため、ソフィアはゆっくりとリリーナに視線を向けた。


「…これ、です。これだと思います」

「本当?」

「覚えてる、お母さんの香りがするから」


 人間が最も長く記憶するのは香りだという。その長い記憶の中で、少女は思い出を開き直した。


 知らないどこかの国の香り、母が大切にしていた香水。その香りは特別な日にだけ感じることができる。兄や自分の誕生日、滅多に帰ってこない父に会える日、母が本当に喜んでいるのが伝わってくる、大事な思い出。


「…お母さん」


 少女は手に持ったハンカチを強く握った。目尻に涙を溜めて、それでも溢れてしまうのを耐えながら。


「…」


 リリーナがソフィアにかけられる言葉はなかった。

 数年前、とソフィアは言っていたが、実際兄妹が幾つの時に母親を失ったのかをリリーナは知らない。それでも今年で十四になる幼い少女が母親を失っているというのは、あまりにも早すぎる。


 リリーナが言葉に迷っていると、部屋の外で何やら物音が聞こえた。それは玄関の方からで、男性の足音。こちらに向かって歩いてきてくる。


「ただいま…」


 とそう言って暖簾から顔を出したのはアンムートであった。彼は何気ない様子で顔を出し、リリーナを見ると明らかに眉を顰めたが、すぐ涙する妹が目に入ると一気に顔色を変える。


「あんた———」


 殴りかからんと言わんばかりの声に、


「やめておにい!」


 そう遮る叫びが響いた。

 その声に驚いたアンムートはその場で静止し、再び涙を堪える妹を見て立ち尽くす。

 そして妹は、持っていたハンカチをリリーナに差し出した。


「リリーナ様、もう一回香水つけてもらっていいですか?」

「え、えぇ…構いませんわ」


 リリーナはもう一度ハンカチに香水を噴く。するとソフィアはそれを預かって立ち上がると、兄の方に向かいそっと差し出した。


「これ、嗅いでみて」

「…」


 兄は少し混乱したまま、言われたとおりハンカチを受け取ると口元にあてがう。そして一つ呼吸をすると、驚いたように目を見開いた。


「!」


 これは、と言いかけて、妹の声が聞こえる。


「わかるでしょ、お母さんの香水」

「…」

「リリーナ様が持ってきてくれたの」


 兄は言葉が返せないでいた。

 そんな兄に、妹は畳み掛けるように続ける。


「誕生日も、お父さんが帰ってくる日も、お母さんは必ずつけてた。私は間違えたりしない」


 そう言って、彼女が目に溜めていた涙が、ぼろりと落ちた時。ソフィアはぐしゃりと顔を崩して静かに泣き始めた。アンムートは何も言わず、ハンカチを強く握りしめて空いた手で優しくソフィアの頭を撫でる。


「おにい…おにい…っ」

「…そうだな」


 言葉のいらない兄妹の会話を、リリーナは黙って見ていた。

 

 ***

 

 少しばかり間を置いてから、アンムートはソフィアの背中を軽く叩いて部屋に戻るよう促すと、二人でローテーブルの前に座り直す。そして泣き腫らした目元を隠せない妹の背中を撫でながら、静かに口を開いた。


「…これを、どこで」


 絞り出すような声に、リリーナは静かに答える。


「数年前、海外の商人から購入した物です。お探しのものはこちらで間違いないかしら?」

「…間違いありません」


 アンムートはじっと、ローテーブルに置かれた香水を見つめていた。リリーナはその姿に何も言わず、ただ言葉を交わす。


「この香水を作ろうとしたと、聞きました」

「はい…少なくとも最初は、そういう動機でした」

「最初は?」

「この…母の香水瓶を割ってしまったのは俺なんです。遺品整理の時に手を滑らせてしまって…だから墓前に供えようと」


 ソフィアは黙って話を聞きながら、まだ目に残った涙を拭っている。いや、残っているのではなくて、そう見えるだけで未だ溢れているのだろう。


「そんなことをしても母が帰ってくるわけではないのですが…妹を慰めることもできるだろうと、調べ始めたんです」

「優しいのですね」


 リリーナの言葉に、アンムートは静かに首を振る。


「そんなことはないです。母を亡くしたショックを誤魔化したかったのは俺も同じだから」


 そう言った時、初めてリリーナとアンムートの視線が絡んだ。


「この瓶、少し触ってもいいですか?」

「えぇ、どうぞ」


 アンムートは瓶を壊さないように、慎重に香水を持ち上げる。夕陽色の丸い瓶はアンムートの顔を映し出して、やっと涙が止まったのかソフィアもまた兄に倣うようにして瓶を見ていた。


「…まさか、またこの瓶を見るときがくるなんて」


 丸い、夕陽色の瓶。母の部屋に大事に飾ってあったのを、未だに彼は覚えている。

 母がこの香水をつけるときはいつもご機嫌で、それでも使い切るのが惜しいのか決して濃くつけることはなかった。

 そしてその香りを嗅いだ父は言うのだ「今日もつけてくれてありがとう」と。


 思い出が開かれる。あの思い出は、まだ遠くないと思わせてくれる香りによって。


「リリーナ、様」

「如何しまして?」


 リリーナを呼んだのはアンムートであった。彼女が呼ばれた声に応えると、彼は意を決したようにソファに座る彼女を見る。


「工房の話、受けさせてください」

「!」

「おにい!?」

「…よろしいんですの?」


 確かにリリーナはアンムートをスカウトするためにここにいるのだが、それでも急な言葉に動揺が隠せない。


「作ろうとしていた母の香水はもうここにあるから、俺が香水を作る理由はもうない…でも誰かが望んでくれるなら、この技術を活かしたいんです」

「…!」


 アンムートの言葉は、瞳は、強く芯を感じさせる。強い決心の末彼がリリーナのスカウトを受けてくれたのであろうと感じたとき、彼女は表情を大きく綻ばせた。


「嬉しいですわ! ありがとう、では気の変わらないうちに契約書を用意しましょう。ミソラ、契約書は持っていますわよね?」

「こちらに」


 ミソラは持っていた鞄から契約書を取り出すと、ペンやインクと共にリリーナへ差し出す。リリーナはそれを受け取ると、ローテーブルに置いて二人に差し向けた。


「早速契約と参りましょう。こちらに規約と契約内容が書かれています。読み書きはある程度できると聞いていますが、わからない点がありましたら説明しますわ」


 兄妹は静かに頷く。内容を確認して、リリーナが解説する、という流れを繰り返し、最後にアンムートが署名をすることで契約は成された。

 

 ***

 

「では今後のことは追って連絡しますわ。今回は私個人との契約でしたので、店に関する契約はまた今度になります」


 玄関にてそう話すリリーナにアンムートが応える。


「わかりました」


 頷く彼に迷いや苛立ちは見えなかった。その姿にリリーナは満足げに笑う。


「では本日は失礼します。また来ますわね」


 それだけ残すとリリーナはミソラを連れ颯爽と帰っていった。

 残された兄妹はその背中を眺めながらやや呆然としつつ、玄関のドアを閉める。


「行っちゃったね」

「あぁ、不思議な人だった」

「うん…貴族の人が直接くるなんて今でも嘘みたいだよ」

「商人でさえ余程大事な相手じゃないと間者を挟むからな」


 貴族も商人も別に暇ではない。

 必要な仕事はいつだって多岐に渡り、実際ここまでアンムートをスカウトしに来た商人や貴族は何人かいたが、全員間者を使わせ書面での交渉ばかりだった。


 どこから噂を聞きつけてくるのかは知らないが、上っ面な言葉にやや上からものを見た印象が滲み出る書面にアンムートは特に嫌気がさしていたのである。

 そのためリリーナのことも最初はそういった者たちと同じかいっそ名前を騙った偽物だろうとさえ思っていたほどであった。


 しかしあまりにも貴族らしくない真摯な姿勢に、どこかで誘いに揺れていたアンムートは、目的を失ったゆえに、リリーナの話を聞き入れてみようと心を決めたのである。


「おにい、よっぽど気に入られてたんだろうね」

「ま、ありがたいことだがな…父さんにどう説明するか」

「お父さんのことだし、次に帰ってきたら言えばいいんじゃない? どうせどこにいるかわからないんだから」


 ソフィアの言葉に、アンムートは苦笑いで返す。


「…それもそうだな」


なんかこう…香水の瓶って一口に言っても色々あるんですよ

自分にそれを細かく伝える技術がない


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