貴方が見ているから、私も見ている(1)
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ファリカとのお茶会から一週間が経った。
今日は日差しも良く、レースのカーテンから入ってくる光が美しい。
そんな中で目が覚めて、久しぶりの光景を見た。
「おはよう、リリーナ」
自分の隣でご機嫌に横たわるこの男の姿を見たのは一体いつぶりだったか。もう今更いいも悪いもないというか、慣れている自分が心底嫌だが、一先ずため息を一つ。
「…おはようございます」
そう言ってベッドから出ようとする。
今日はファリカがアンムートとの連絡をとってくれて当人に会いにいく日なのでうだうだはしていられない。
「きゃあ!?」
しかし急に腕を引かれた。そのままベッドに引き摺るこまれるかと思ったら、ディードリヒの胸板が背中に当たって体を動かせないように腹を固定される。
「な、なんですの急に。今日私は予定が…」
「ダメだよ」
短く言ったその声は、酷く低かった。
「…?」
そうそれは、いつかの、いつかの大雨の日のような。
「ダメに決まってるだろ、男に会いに行くなんて」
「!」
「どうしてそんなことするの? 僕と中々会えないから当てつけ?」
「違います。彼は必要な職人で…」
「黙って」
「…」
「母上の言ったことなんて無視すればいいって言ったのに、まだ拘ってるの?」
リリーナはごそりと動いた。動かないようにディードリヒが制止する腕の中でなんとか体の向きを変えると、彼女の金の瞳は濁り切った水色の瞳を真っ直ぐと見つめる。
「勿論です。貴方といるためですから」
昏い、昏い瞳が怒っている、悲しんでいる、寂しがっている、不安に怯えている。
知っているのだ、そんなことは。
「今の私に必要なのは『実績』です。王妃様に与えられたチャンスを正しく活かし、実績を積んで、私がただ貴方の横にいるだけのお飾りでないと証明する時ですわ」
「そのために僕を不安にするの?」
「貴方が私を信じてくださらないのであれば」
「…」
金の瞳は求めている。
ただ愛しい人の信頼を。
「貴方が、ディードリヒ様が私の“唯一無二”であるのだと信じていただけないのであれば、私は貴方をわざと傷つけてでも、信じていただけるまで確たる私を示し続けます」
「…それはひどいよ、リリーナ」
「貴方と永遠にいることが私の幸せであるのだと、わかっていただけるまで私はその環境を作ることをやめません」
強い金の瞳はほんの少しだけ、潤んでいる。
バレないように、彼女は願った。
「私を選んだのは貴方でしょう。私と、共に飛んでくださると言ってくださったのは貴方でしょう」
濁った瞳には、映らない。
少しだけ潤んだ彼女の雫が。
こんなに食い入るように彼女を見ているのに。
「私は『貴方』を見ています。ディードリヒ様は、私を見てくださっているのでしょうか」
「見てるよ。ずっと見てるんだ、隅まで、だから見えるところにいてよ」
だったら気づいて欲しい。気づかないとわかっていても。
「ではいつまで貴方は『遠くで』私を見ているの?」
「!?」
「私は貴方を見ていますわ」
そう、ずっと見ている。
貴方が見てくれるから、貴方を見ていのに。
「貴方が『隣で』私を見てくださったなら、私が離れていかないとおわかりになったでしょう。でも遠くからでは、私の表情まではわからないでしょう?」
「そんなこと」
そうだ、そんなことはない。
彼女はいつだって自分の隣で笑って、ここにいて、自分を見て。
「…!」
そこで、初めて気づいた。
誰にもわからないほど、ほんのわずかに彼女が泣いているのだと。
(どうして、泣いて)
「『写真の私』は、本当に貴方を見ているのかしら?」
「それは、それ、は…」
重なった動揺のあまりリリーナを拘束している腕の力が少し抜けた。それでも彼女は、離れたりしない。
「私は『ここ』にいます。貴方の趣味を否定しませんが、目の前にいる私が一番美しいはずですわ」
「そうだよ、リリーナはいつだって…今が綺麗で」
ディードリヒは混乱している。
彼女は、彼の女神は、どうして自分に涙を見せたのか。
彼女が泣いたのは、あの日だけだったのに。
「なら私を見なさい、真っ直ぐです」
「…」
彼はできる限りまっすぐ、彼女を見たはずだった。それでもその瞳は震え、濁り、泣きそうで、混乱している。
それでもリリーナは問う。
「私は貴方から離れていくような女かしら」
「そうじゃ、なくて…でも綺麗な君に他の奴が触れてほしくない」
「必要もないのに触れさせるわけないでしょう。私に触れていいのは貴方だけです」
「目が合うかもしれない」
「視線が交わらないとは言えません。でも貴方を見るみたいに熱をもつわけでもありません」
それでも彼の表情は崩れる。ぐしゃぐしゃに、泣きそうに。
「嫌だ…嫌だよ、僕だけ見てて、視界になんて入れないで」
「相手だけが特別になるわけがないでしょう。私の特別は貴方だけです」
「僕は本当は有象無象だって嫌なのに…」
リリーナはそこで一つキスをした。
頬や額ではなくて、唇に。
「…!」
「では私を自由にした意味を思い出しなさい。貴方のことですから私の動きに制限がないのも理由があるのでしょう?」
「そうだけど、そうだけど嫌だ…こんなことになるなら最初から僕だって」
「そんなことがわからない私だとでも?」
「え…?」
リリーナはディードリヒの頬をそっと撫でる。まるで慈しむように。
「貴方の心を揺さぶることは本意ではありません。それでも絶対に、貴方と結婚してみせる」
「どういうこと…?」
「貴方の本性も理性も愛していると言ったでしょう。どんな理由でも自由な私を思い出させてくれたのは貴方ですし、どう歪んでいても私を愛してくれたのは貴方です」
ディードリヒは話についていけず混乱する。リリーナはそれをわかっていると視線で訴えて、それでも続けた。
「私は、どうしたらその愛に報いることができるでしょう。どんなに嬉しいと感じても貴方の愛には及びません。どれだけ貴方を乞うても貴方の渇きには及びません」
「…」
「ならば私にできることは、“貴方の愛した私”でいることと“誰から見ても貴方を幸せにする”ことだけですわ」
「! それで、リリーナは無理して…」
「貴方が愛した私は、故郷にいた頃の私でしょう? それでいて個人があるのなら、私は私の立場を全うしなくては」
「そんな、そんなこと…!」
「ですから貴方が望む通り、貴方と結婚致しましょう。“お飾り”と言われないよう全力を尽くしましょう。誰よりも貴方に信頼してもらえる私になりましょう」
ディードリヒは、リリーナの“覚悟”に言葉を返せないでいる。かといって彼女はそんなものを求めているわけでもない。
「リリーナ…」
「…それでも、私がどう在ろうと貴方の人形でなければ信じていただけないのであれば、そう存りましょう。貴方はそんな私も、愛してくださりますもの」
「それは…」
確かにそうだ。そう思ってしまって、言葉が続かない。
物言わぬ彼女ですら、確かに彼は愛してしまえるから。
「ですがそれでは共に飛ぶことはできません。貴方はどうしたいんですの?」
「それ、は…」
明らかに狼狽えている、揺れてしまった、ただでさえ混乱しているというのに。
この金の瞳が、こんなにも自分を考えてくれていると思わなくて。
あの日、あの時、過去を話したあの屋敷で、彼女は確かにそばにいたのに、わからなくなってしまって、それなのに。
彼女は今誰より自分を見ていて。
(どうしたらいいんだろう)
「リリーナ、だって、僕は…」
「伝わりませんか? 私の想いは」
「そうじゃ、ない。そうじゃなくて」
体を強く抱いていた腕が離れて、その掌が彼女の肩に触れる。
「リリーナの言うこと、本当ならずっと一緒にいれる…信じてる。でもやっぱり嫌だよ。他の男がリリーナと対峙するのは」
「そればかりは…これからもないと言い切れませんわ」
商売をすると言うのはそういうことだ。
たくさんの人と会う、たくさんの人と関係は生まれる。その中に男がいないとは言い切れない。
「わかってるけど…君にだって経験があるじゃないか、目の前で誰かが去っていく経験が」
肩に置かれた手が震えている。また表情を崩して、懇願するような瞳。
でもそれはディードリヒにも言えるのに、とリリーナは思った。もし不貞がなかったとしても、何かの事情で引き離されないとは限らない。
そんなことを言っていたらキリがないのでわざわざ言わないが。
「いかないでよリリーナ…お願いだからこれ以上不安の種を撒かないで、そばにいて」
「…貴方の中で余程私は安い女のようですわね」
リリーナはディードリヒを睨みつける。
ディードリヒもまた「そうじゃない!」と珍しく声を張った。
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