「おやすみ、また明日」(1)
***
「リリーナ」
愛しい彼の声が鼓膜を震わせる。
「はい、ディードリヒ様」
そしてその胸を締め付ける愛すべき声に正面から応えることができることが、何よりも嬉しい。
二人の寝室に置かれた大きなベッドの上で互いの視線が絡むことに、リリーナは“今日”が来たのだと改めて実感する。今日から二人は新しく設けられたこの部屋で毎夜共に眠るのだ。
互いが特別な約束をしなくてもいい、他人の視線も気にしなくていい。この時間が今日からは二人の日常になる。
「長かったね…やっとこの日が来た」
そう、小さなため息と共に呟いた彼の大きな掌がリリーナの頬を滑り撫でていく。リリーナはその掌に応えるように頬を擦り付けながら、少し呆れた様子で笑った。
「まだ出会って二年も経っていないではありませんか。駆け足なくらいですわ」
「それ本気で言ってる? 僕は十三年も君を追いかけてきたのに」
「それは…」
「僕からしたら、君を連れ去ってからここまでだって途方もない時間に感じたよ。君を毎日見つめられて、君がそばにいるって実感が湧くほど日付の進みがゆっくりに感じるんだ」
リリーナは少し小首を傾げてリラックスした様子で彼の言葉に耳を傾ける。明確な単語を交えなくとも伝わるその愛の言葉は心地よく、喜ばしくリリーナは感じた。
「君を目に焼き付けるその瞬間は風のように過ぎ去ってしまうのに、他の時間は岩でも引きずりながら歩いているみたいに長く感じる。それは途方もない苦痛なんだよ」
ディードリヒは愛する存在を乞うようにその頬を撫でる。その表情は苦しげで、リリーナもまたその苦しみに強く共感した。
貴方のいない時間は、どれだけ充実しているように思えても胸の穴に風が吹くように寂しくて、苦しい、と。
「でも」
だが、ふと彼は微笑む。
心から幸せそうに、昏い瞳で。
「やっと“今日”が来たんだ。一度全てが終わって、ここから全てが始まる記念すべき日が。リリーナはもう誰のものでもない…僕だけのリリーナなんだよ」
「ディードリヒ様…」
「もう誰に何を言われる筋合いもない、いつどんな時だって君は僕の君なんだ。君にも僕にも、互いに自由なんて存在しない。この世界で君を僕から引き離せる奴はいなくなった」
「…」
「だってやっと、君は僕の奥さんになったんだから」
口元は幸せが溢れ出ているかのような三日月型に、頬は少しばかり照れているかのように僅かに赤く染まり、目元は心の底から幸せを語るように微笑っている。
しかしその瞳には必ず光が存在しない。
歪んだ独占欲と通じ合うには難しいヘドロのような一方的な愛情がその瞳からリリーナへと流れ出ている。
それでも彼は己の愛の歪みを認め、そして“正しい愛”だと言うのだろう。彼の空いた左手がリリーナを捉えるように彼女の右手に絡みつくその感触だけで、リリーナには確信が持てる。
だがリリーナがその愛とそこに置かれた執着を跳ね除けることはない。全てが判った今だからこそ、この感情を支配だけではない愛だと思えて、そして自分は彼から自分に向かった“それ”を喜べるのだから。
(やっと、自分を理由にこの手を離さなくて済む)
リリーナもまた彼の微笑みに笑みを返した。心から、喜びが伝わるように、もう何も恐れのない昏い瞳で。
貴方を愛せる日を待っていたのだと、伝えたいから。
「この不自由は、リリーナにとっても幸せだよね?」
「勿論。意地の悪い事をしないでくださいませ」
「ごめんね。僕も人間だからまだ少し不安なんだ」
「不安、ですか…」
リリーナは一つ呟くと、そっとディードリヒの頬に左手を伸ばしそのまま優しく唇を重ねる。
それから昏い瞳は呆れたように彼を見た。
「酷い嘘をおつきになるものですわ。貴方の目から伝わる言葉は『死んでも私を離さない』としか訴えていませんもの」
「リリーナ…んんっ」
反論する唇は許されない、そう言わんばかりの口付けがリリーナから押し付けられる。そして長いキスから間を置かず、即座に彼女はディードリヒを巻き込んでベッドに倒れ込んだ。
「さぁ、長い文言よりももっとはっきり私を愛して下さいませ。私はもう貴方と共にある運命なのですから」
リリーナはそう言って強気に微笑む。光の灯った彼女の笑顔にディードリヒは一瞬面食らい、すぐさらにどろりとした笑顔を見せた。
「…リリーナから『愛して欲しい』なんて聞けると思ってなかったな…。何して欲しいの? なんでもしてあげる」
「なんでも…? いえ…しょ、初夜にやるべきことは決まっているのではなくって…?」
「え?」
困惑するリリーナの姿に困惑するディードリヒ。しかし彼女は顔を真っ赤にして逸らし、何か言葉に詰まっているように彼には見えた。
なので、
「きゃあ!?」
「何か決まってることがあるの? 僕にはちょっと思いつかないなぁ」
ディードリヒはリリーナに覆い被さり、自分から顔を逸らす彼女の耳元でそっと惚けた言葉を囁く。
わざとらしく囁く彼は悪魔のように意地悪く微笑み、リリーナの反応に悟った“何か”から敢えて目を逸らしていた。
「ねぇリリーナ、教えてよ」
「その…」
「んー? 聞こえないなぁ」
「あ、ぁの…よ」
「よ?」
そこまで言いかけて深呼吸をしたリリーナは、目をぐるぐると回しながら震える唇を必死に開いて真相を語る。
「夜伽を…初夜は、夜伽をするものだと故郷では聞いていたので、覚悟は決めてきたつもり、なのですが…」
「…」
途切れ途切れに聞こえた衝撃的な発言に、ディードリヒは思わず返答に迷い脳内が白く染まった。
およそリリーナから飛んでくるとは思えない言葉に耳を疑いながらも、ディードリヒは必死に言葉を探して震えながら耳まで顔を赤くして縮こまる彼女に返答を返す。
「パンドラって、そうだっけ…?」
「え、ち、違うんですの!? 私は確かに昔…」
ディードリヒの言葉に深く勘繰ってしまったリリーナは今度は顔を真っ青に染めた。
確かにこちらに来てから自分でそんな話をわざわざ聞いて回るものはしたないと思い調べはしなかったが、もし自分の行動が間違っていたらとんだ痴女ではないか…と。
「いや…」
リリーナの様子にディードリヒはうまく言葉が形作れず少し詰まってしまう。確かに思い返してみればパンドラは初夜より情事を始め、家庭によっては一ヶ月ほど集中的に勤しむのが貴族社会の一般的な姿と聞いたことがあったと思い出したからだ。
なぜ知っているのかと言われれば、夜会の最中試しに参加したビリヤードで対戦相手がそんなくだらない話を意気揚々となぜか語っていたからだが…そういう下卑た輩の相手をするのが嫌で夜会での男性集会には参加しないようになったのだったと同時に思い出す。
そしてリリーナはその話をどこかで聞かされたのだろう。どう考えても彼女が積極的に興味を持つような話題ではない。
だからこそ勇気を持ってこの場にいると思うと、なんとも申し訳ない気持ちになってくる。
「うーん…」
ディードリヒは気まずそうに頬を掻きながら内心でため息をつき、それから素直に優しく微笑んでからリリーナの頭を撫でた。
「リリーナは頑張ってくれたんだね。でも大丈夫だよ、ここの習慣は向こうとは違うから」
「…!」
(や、やはり痴女のようなことを…!? 私は、私はそんなつもりでは…!)
リリーナは聞こえた言葉にさらに顔を青くする。自分はなんてことをしたのだろう、下卑た女と思われたかもしれないと不安が頭を回り続ける中で、そんなリリーナの姿を見たディードリヒは『可哀想に』と思わないではいられなかった。
下手に情報を持っているからこういったミスをするのである。ある意味無垢なリリーナをここまで翻弄するとは、本当に下卑た趣味の人間もいるものだ。リリーナにこの情報を吹き込んだ相手は性格が悪いのかリリーナがパンドラで結婚した際のプレッシャーをかけたかったのかは知らないが。
(綺麗なリリーナにくだらないこと吹き込みやがって…見つけたら殺そう)
燃えるような怒りを内心に抱えるも『今は誤解を解かなくては』とディードリヒは思考を切り替え、そしてリリーナを抱き上げるとそのまま労るように彼女の柔らかい髪を撫でた。
「リリーナが心配してるようなことは何もないよ。僕はどんなリリーナでも好きだから安心して」
「そ、そういった問題では…! 好きな殿方に汚れていると思われるのは抵抗しかありませんわ!」
「むしろ僕がリリーナにそんなことを思わないのはリリーナが一番わかってるんじゃない? だって僕だよ?」
「…」
ディードリヒの言葉にリリーナはふと冷静に我に帰る。そういえば、相手は紛うことなきストーカーだったではないかと。
相手がストーカーということは…悲しいかな、自分の私生活はおおよそ相手に丸見えである。つまり、リリーナが何に興味を持って生きてきたかという程度のことならば言わずとも相手からは丸見えなのだ。
「ちなみにフレーメンの情事の始まりは新婚旅行からだよ。まぁリリーナがこの話をするんじゃないかって意地悪はしたけど」
「なんですって!?」
「あはは、ごめんね。顔が真っ赤で目はぐるぐるで、あたふたしてるリリーナはそれはもう可愛かったよ!」
「しんっじられませんわ!」
怒り狂ったリリーナは顔を真っ赤にしてディードリヒの頬を思い切り抓る。
「いふぁい!」
「この程度で済むことを感謝なさい! 次同じことをしたら引っ叩きますわよ!」
「あふぁあほへんへっへ〜」
「お黙り! この変態!」
思い切り頬を抓られ「痛い」と言う割に反省の態度が見えないディードリヒにさらに憤慨するリリーナではあるが、その様子を楽しまれているとわかったら彼女はどうなってしまうのだろうか。
とはいえ、いつまでも相手を痛めつけても意味がない、とリリーナはディードリヒを開放すると大きくため息をつく。
「もう…これでは床を共にしているとは思えないいつも通りさですわ」
「そうかなぁ、僕は全部が変わったように感じるけど」
「…そうでしょうか?」
「だって今日からここで寝るのが、二人っきりで寝る前に過ごすこの時間が“当たり前”になるんだよ? それって常識が変わるくらいすごいことだよ」
「…!」
ディードリヒの言葉にリリーナははっと気付かされる。この時間はもう“特別”ではないのだ、この満たされた時間が当たり前になるのか、と。
二人で過ごせる時間が確実に増えて、日常になる…それは確かに革命と言っていい。
「僕は嬉しいけどな、毎日君がどう過ごしたのかを君の口から聞けるっていうのは」
「どうして私自ら己の一日を貴方に詳しく話さなくてはなりませんの?」
「嫌なの?」
「感情以前の問題ではなくて? 私は幼子ではないんですのよ」
今聞いた言葉は、まるで母親に一日の出来事を話す子供になれと言われているようにリリーナは感じた。リリーナからすればそんな事をする道理はないしやりたいとも思わない。
しかし、ディードリヒはリリーナの返答に少し怒りの混じったような不服な様子を見せる。
「今更僕に行動を把握されるのが嫌ってこと?」
「それは違います。自らの口で説明しなくとも、貴方は私にミソラをつけているではありませんか。必要ありませんわ」
「何言ってるの?」
リリーナの言葉に、ディードリヒは『信じられない』と言わんばかりの衝撃を怒りを露わにした。そしてつい先程までリリーナの事を愛おしく見ていたはずのその目は、今彼女のことを暗く冷たく…静かな怒りで見つめている。
「君がその行動を取った動機は? その時何を考えていたの? 何を見た時にどう感じたの? 嫌悪を抱くの? 好意を抱くの? 君の心はどこにあって、何を考えて行動を決めたの?」
「ディードリヒ様」
「君の目が見たものは何? 君の脳内にある情報は何? 君の心にある感情は何? 僕にわからないことが、僕の知りたいことが、一体どれだけいくつあるかわかってて言ってるの?」
「…」
捲し立てるようにディードリヒはリリーナに願望と質問を押し付けていく。急変した彼を一度落ち着けようとリリーナは彼の名を呼んだが、応じる気配の無い様子に一度沈黙を選んだ。
「全部君にしかわからないんだよ。形なんてはっきりしなくてもいい、それこそ『なんとなく』の一言でもいい。君の視界で見たものを、君が感じたことを、全部を君の言葉で知りたいんだ」
リリーナは沈黙を返す。そして彼は止まらない。
「君が何を見ていたか話を聞いたって、それは君の中の本当じゃないかもしれない。僕が君の行動に予測をつけたって、それは君の“なんとなく”で突然崩れるかもしれない。それは君にしかわからないのに、僕は本当はそれだってずっと知りたかったのに!」
一つ話すたびに、彼の目は見開き、心は裂けるほど張り詰め、声は悲痛に願いを訴える。
まるで彼女を自らに縛り付ける縄を必死に集めるように。
「僕は君と違うから君を感じられるんだ。僕が僕として君の視界を見たいんだ。そして僕もリリーナに同じように全部話して、互いが互いをもっと知っていく…それは素晴らしいことなんだよ」
「…」
「だから『嫌』なんて嘘でも言わないで。全部記録させて、全部覚えさせて。いいよねリリーナ? だってリリーナはもう僕のリリーナなんだからさ、ね?」
彼の手は酷く震えながら、リリーナの腕が鬱血するのではないかという勢いで彼女の腕を掴んでいる。
当然リリーナは身動きが取れず、掴まれた両の二の腕の痛みに表情を歪ませないよう必死になっていた。
それでも、彼女は真っ直ぐに彼を見つめている。
「…ディードリヒ様」
「リリーナ…」
怯える目が彼女を見つめていた。
真っ直ぐな瞳は彼に訴えかけている。
そしてリリーナがその顎めがけて思い切り頭部をぶつけようと強硬手段に出た。
「今日は甘やかさないよ、リリーナ」
しかしその一撃はあっさりと避けられてしまう。
「…っ」
「僕の話わかってくれたよね? 僕の気持ち伝わったよね? ほら返事は?」
「…」
リリーナは沈黙をし、声の代わりに酷く睨みつけた視線を返した。そして彼は、彼女の“返事”を冷え込んだ昏い瞳で待っている。
この問答は自分と彼だからこそ起きるのかもしれない。
彼がこんなにも自分を求めてくれる気持ちは、形は置いておいても嬉しくはある。
だがそれ以上に、今は苛立ちが勝った。
彼が自分と“話をしてくれない”苛立ちと悲しさが、リリーナの中では嫌でも勝る。
「…私の記憶力をなんだと思っていますの? 私は超能力者ではなくってよ」
「覚えてる限りでもいいよ。リリーナが教えてくれるなら」
「その発言をしてしまったら話が矛盾してしまうではありませんか…」
はぁ、とリリーナは腹の底から大きなため息を吐き眉間に深い皺を寄せる。
自分から一応発言をしたからか両腕にかかっていた力が緩み血流を感じるも、未だ強く痛むそれに耐えながらリリーナは考えた。
ではさっきまで言っていた“全部”とはなんだったのか、と。
「本当は一秒でも多く知りたいけど、そこまで無理は言わないよ。人間の脳に限界があることは僕もよくわかってるからね。それでも話してもらえることはたくさんあると思うんだ」
「…」
ディードリヒの言葉に対する返答を『面倒くさい』の一言で済ませないようにするにはどう言葉を選んだものかをリリーナは考える。心情と表情は口にしなくとも溢れる『面倒くさい』という感情が表に出てしまっているが、それを口にするのは話が変わってしまう。
確かにこのストーカーの言いそうなことではある。そしてタイミングを見計らっていたであろうこともわかる…が、一日が終わっていざ寝よう、癒されよう、愛し合おうという時にやりたいことでは絶対にない。
「貴方、今この時間がいつなのかおわかりでして? 寝る前ですのよ。私は一日を振り返ってまで更に疲れたくありませんの」
「なら寝る前にマッサージをしてあげるよ。その時間に話をすれば丁度いいでしょ? 僕は自分が鍛えてるから解し方もよくわかるし」
「貴方があまりに上手ですと眠りそうですが…」
「えー…」
手先の器用なディードリヒのことなのでマッサージはヒールで一日歩き回った脚にはさぞ気持ちのいいことだろう。しかし疲れているところにマッサージなどされてしまったら、気がついた時には朝になっている気もする。
「うーん、しょうがないなぁ…ならタイミングを計るしかないか…」
「どうあっても意見を譲るおつもりはないんですのね…」
「ないよ」
「…」
不服げな表情は崩さないが、一応譲歩はしてくるディードリヒ。しかしそれは裏を返せば譲歩をしてでも本質的な目標は達成したいという意志の表れでもあり、リリーナは素直に頭を悩ませた。
「はぁ…」
つい、堪えきれないため息が吐き出される。それはここ最近で一番大きく、彼女の心労を物語っていた。
ディードリヒがそこまで自分を占有しようとしていたのか、と考えるのと同時に、如何にも彼の考えそうなことだとも考える。故に彼の心に付け入る隙はないのだろう。
だが、リリーナとてこのまま彼に完全管理される生活を送りたいとは思わない。それでは本来あったはずの対等性がなくなり、そのうち互いが互いとして相手を愛し合う意味を失ってしまうとリリーナは考えているからだ。
相手と自分は違うから相手を知りたい、と口で言うのは簡単だが、それはやり過ぎれば自他の境界線を見失い、同時に行為の意味さえ失ってしまう。
リリーナからすれば、そんな将来性のない関係はごめんだ。他人を理解しようとすることと他人を自分に取り込もうとするのは、やっていることの意味も本質も違う。
(さて、どうしたものでしょうか…)
かといって、これ以上ディードリヒの考えを真っ向から否定するのも話が変わってくる。彼の行動に対する動機が判明した以上、せめて折衷案になりそうなものを考えなくては。
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