憔悴と追憶(1)
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自分の下にあるのは薔薇の花弁が散らされた高級なベッド。部屋そのものは空調で温度が保たれ、オイル式の芳香剤の香りが広い部屋に漂っている。ベッドから降りれば花柄の良い布と美しい木材で作られた質の良い家具たちが揃えられ、とても居心地の良い空間が広がっているのだ。
「…」
「ほらリリーナ、今は動いたらダメだよ」
この、自分の後ろで髪を梳いている男と両手首につけられた鎖付きの手錠さえなければ。
「リリーナ、うちのシャンプーはどうかな? 城で評判の良かったものを取り寄せてみたんだ」
「…そうですのね」
「こんなもの使わなくてもリリーナの髪は綺麗だと思ったんだけど…リリーナは身だしなみを気にする子だからきちんとしてあげようって思ったんだ」
嬉々として髪を弄っているこの男が、かの王太子であるなど嘘だと思いたかった…が、確かにその美しい顔面は紛うことなくよくみた本人のものだし、こんな美形が世の中早々いてたまるか、という意味でも認めざるを得ない。
人間表裏一体とは言ったものの、まさかこんな裏側のある人間が今自分の後ろにいることすら恐ろしい上、なんなら昨日はベッドに潜り込んできた。怖すぎて眠れない朝を迎えたがとても歓迎はしたくない。
ほぼ常にというほど相手が何かと話しかけてくるが、もはや返事するのすら疲れてしまった。
繋がれた鎖は部屋の中に備え付けられたトイレと風呂にはいけるが部屋の外には行けないという絶妙な長さになっていて、脱走に失敗したのを見つけた相手が大変ご満悦な笑みを向けてきたのを何度も思い出す。
ただそれ以外に危害があるのかと言われれば今のところ無いと言っていい。抱きつかれるのと匂いを嗅がれるのを除けば、だが。おかげで精神的な疲労も含めすでに彼女は倒れそうになっている。
初対面…と言うと語弊があるが、ここにきて数日でもう倒れそうなどこれから心が保つのだろうか、考えるだけで背筋が凍る。
「はい、できた。今日はツインテールにしてみたよ、リリーナ」
そう言ってディードリヒは鏡を差し出す。器用に前髪は揃えられ、横髪は縦ロールに、後ろ髪は高めのツインテールにまとめられていた。ディードリヒはこうやって毎日リリーナの髪を弄って遊んでいる。
「…相変わらず器用ですこと」
「そうでしょ? リリーナを可愛くするために勉強したんだよ」
「褒めてませんわ」
「リリーナの澄んだ声が聴ければご褒美だよ!」
「…」
そっと口を閉じた。
それからため息をついて、魂の抜けた顔をしたままここまでを思い返す。
***
リリーナ・ルーベンシュタインは、大陸で三番目に国土を持つと言われるパンドラ王国の宰相であるマルクス・ルーベンシュタイン公爵の一人娘であり、同国王子であるリヒター・クォーツ・パンドラ王子の許嫁である。
本人たちが六歳時点ですでに婚約することが決まっており、以降本人たちの意思に関係なく、その関係性は二人が十六歳である去年まで続けられた。
しかしリリーナが十五歳の時、つまり二年前に事は遡る。
王子がマイヤー伯爵の一人娘であるオデッサに恋をした。運命的な出会いをした二人は徐々に惹かれあい、ときめきを求める同年代の令嬢の憧れの的となる。許嫁であるリリーナを除いて。
オデッサは遠縁から引き上げられた平民上がりの令嬢で、マナーは教え込まれたのかそこそこできるものの、やはり貴族間の常識や空気の読み方にはおぼつかない点が多かった。リリーナも最初はそれをやんわりと指摘したものの、相手がそれを理解する様子もなく、自分の正義を押し通し始め、それを境に段々とリリーナの行為は悪辣なものになっていく。
ありていに言って終えば、リリーナは嫌がらせを始めたのだ。ドレスを裂いたり、難しいマナーが求められる場を押し付けたりと、彼女の行いは少しずつ目に余るものになっていったのである。
そんな最中のこと、二つの事件が発生した。
一つの目は殺人事件。
被害者はオデッサに付いていたメイドの一人で、オデッサが毎日のように祈りを捧げにいく城の敷地に建てられた教会の前が現場になった。現場検証の結果、メイドはある夜にリリーナの名が書かれた手紙によって呼び出され、口論の末殺害、それを王子が偶然みていたと言う。
二つ目は殺人未遂。
オデッサがリリーナの手によって階段から落とされた、と本人が告発した。
その際オデッサは死に至らなかったものの、足と腕に大きな打撲を負い、全治三週間を余儀なくされる。
この二つが同時に、王子の手によって、大々的に発表された。王子とリリーナの正式な婚約発表の場で。
リリーナは何も言わなかった。
ただ真っ直ぐと王子を見て、毅然と背筋を曲げず、こちらを見下す王子の命に従った衛兵によって運ばれていったとしても。
事実事件は二つとも冤罪であった。
殺人事件の当日は確かに城での食事会に参加し、その後は城で宿泊となっていたので自宅にはいなかったが、しかしあの日は寝入っていた自覚があり自分が夢遊病でもない限り犯行に及ぶことはできず、殺人未遂に至っては記憶もないので話にならない。
もしかしたら自分の至らないミスがあったかもしれないと自らを振り返るほどに、実際の彼女は関わってもいないのだ。
しかし当時それを裏付ける証拠などない以上、あの場で自分の冤罪を訴えたところで何も変わりはしない。彼女はそう考え何も、何も言わなかった。
その冤罪と、元よりあった数々の嫌がらせの事実により家名に恥を塗ったとして彼女は貴族牢に入れられ、その後一年の時を過ごす。
そこから、謎の爆破により誘拐されたのが数日前の出来事であった。
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