君と歩いていくために僕がやりたいと思ったこと(3)
「まず一歩としてはよろしいのではなくて?」
「!」
「人間がこれまでやってきたことの全てを一度に捨てることはできない…それは私が一番よくわかっているつもりですわ。ですから、ここから先は二人で決めるとして今大切なのは貴方が本当に目の前のこれを処分してしまっていいのかを決めることでしてよ」
リリーナはそう言って木箱の中の写真を一枚手にとる。それはまだ子供の頃の一枚で、自室で一人ダンスのステップを練習している風景であった。
この頃着ていたドレスはよく裾がほつれていて、使用人に頼んで裾にフリルなどを当ててよく誤魔化してもらっていたのをよく覚えている。ドレスを着たままでなくては本番に近い練習ができないとドレスを着たまま練習をして、よく裾を踏んでいたからだ。
そのせいで体のバランスを崩しよく足を痛めていたのも思い出す。おかげで城に向かうとなってもくるぶしの辺りが暫く痛くて仕方がなかった。
これは写真に撮られているのでおそらく昼間の光景だと思われるが、夜も基本的に誰も見ていない自室でずっと同じことをして、見回りの使用人にバレないよう台所に移動しては密かに氷嚢を作り痛めた足を誤魔化しながらまた練習を再開する日々。
部屋に置かれた姿見を見ながら、灯りが漏れてバレない様足元に蝋燭を置いて何度も、何度も。見本などそこいらのパーティで嫌でも見かける。教師に学んだ範囲だけでも気が遠くなるほど繰り返した。
教えられる部分だけでなく、自分から周囲を観察して理想的な動きをイメージしたらそれが安定して実行できるまで練習を繰り返す…それはバイオリンでも、カーテシーでも、テーブルマナーの所作一つでも、笑顔でも変わらない。
より美しく、より正確に自分はあるべきだ。
自分が求められた姿のその先であるために。
「…」
その努力を後悔したことはない。全て誰かに言われたのではなく自分でそう在ろうと決めたことだから。
そう、自分で決めたことだった故に否定されたことが、「頑張らなくていい」と一度でも言われたことがショックで。
だけど自分が知らなかっただけで、自分を認めて追いかけてくれる人がいた。その存在が嬉しくて、そして今目の前には悍ましいとも言えるほどその証拠がある。
「私は、貴方の仄暗い部分を愛してはいけないのだと、ことの初めから思うほどには貴方の行いがどこかで嬉しいと感じていました。今その証拠が目の前にあることが悍ましいとも嬉しいとも思います。ですが」
「?」
「私はそれだけで貴方を愛しているわけではありません」
「え…?」
「確かに今でもそういった一面はありますが、貴方と過ごして振り回される日々はとても楽しくて愛おしい…そして何より、共にあるのが貴方だからこそ隣にいたいと願うのです」
そう言って、リリーナは手に持っていた写真を箱に戻すと、次の一枚を手に取った。その写真は実家であるルーベンシュタイン邸にて友人とお茶をしている姿で、この頃に信用できる友人はいなかったなと思い出す。
あの頃にいた“友人”など、所詮は人脈を示すためのものでしかなかった。話の中身はいつだって表向きの世間話か利益のあるやり取りを探すようなものばかり。
笑っていても楽しいと思ったことはない。
「この写真の中に居る人間と貴方は確かに別格の存在であるというのに、どんな思いも言葉にすれば陳腐になってしまうものですわ。だから私は貴方が、ずっと私に夢を見ていて下さればいいと…願ってしまう」
「夢?」
「えぇ。輝かしい私に夢を見て、美しい私を愛して、ずっと私の幻想に囚われてくださればきっと貴方は私から離れることなどないのに、と」
「…それは」
そう、ディードリヒは小さく呟き彼女の手を取る。繋がれた手に驚いたリリーナの手からは写真が箱の中に落ちていった。
「それは、僕も同じだよ。僕だって君が夢から醒めなければいいのにって思ってる。君が、“僕だけが君の素敵なところを追いかけることのできる人間だ”って信じてくれる夢が醒めなければいいのにって」
「それは夢ではありませんわ」
「え?」
暗い表情でリリーナの手を掴むディードリヒに向かって、リリーナは言い切る。その言葉に驚いた彼は俯いた視線を思わず彼女に向けた。
「それは事実ですもの。貴方以外に私の努力を追いかけながら、肯定しながら、私の思いを大切にしたまま、それでも“もう休んでいい”と言ったのは貴方だけですわ」
「いや、そんなことは…」
「だから私は嬉しかった。貴方は私の想いがまるで刷り込みでもあるかのように言いますが、これは刷り込みでもなんでもなく、本当に貴方が唯一無二なのです。ですから貴方の言っていることは事実であって、夢などという曖昧なものではありません」
リリーナは自分の手を掴む彼の手を握り返す。思わぬことに狼狽える彼が離れてしまわないように、彼が自分のやったことを認められるように。
「…それを言ったら、君がいつだって輝いているのも事実だ。たとえそれが安らかな時間の中にあっても、怠惰な灰色の世界にあっても君はいつだって僕の愛しいリリーナで、君を追いかける僕を好きだと言ってくれたのが嬉しかった。だから君も、僕が夢の中に居るなんて言わないでよ」
握られた手にディードリヒは指を絡める。彼女を離さないように、自分は自分の意思でここに居るのだと伝えるように。
「私たちは、同じことを考えていたのですわね…」
「はは、そうだね。今は夢のようだから」
「…えぇ。でも変わっていく自分が、これが夢でないと教えてくれるでしょう?」
リリーナはそう言っていつもの強気な笑顔を見せる。だがその笑顔の光は、いつもより少し柔らかくより温かいものであった。
「私は貴方と共に変わっていく自分が好きですの。それは貴方がいなければ始まりもしなかったことで、そう思うとあの最悪としか言いようのない始まりに感謝できます」
「あの怯えたリリーナも可愛かったのになぁ…最近は呆れられるばっかりで寂しいよ」
「…顔面を引っ叩きますわよ」
真面目な話をしているというのに、と空いている手で平手を構えるリリーナ。しかし怒った彼女に向かってディードリヒは「あはは」と軽く笑って返す。
「ごめんって、ちょっと感慨に耽っちゃって…でもそうだね、僕も昔の自分より今君といる自分の方が好きだな。変わっていく君を愛していける自分とか、それにつられて今ここにいる自分も」
「そうでしょう。だから今は確かに夢ではないのです」
きっとそうやって歩いていくことが相手を“信じる”ことの一つなのかもしれないと、リリーナは感じた。
そうやって、自分たちは夢から醒めていくのだろうと。
「愛していますわ、ディードリヒ様。ですから私はあえて貴方に問いましょう、『本当にこの写真は燃やしてしまっていいんですの?』」
リリーナは問う。
そしてその問いに、ディードリヒは一つ頷いて答えた。
「僕も君を愛してるよ、リリーナ。だからこれは『燃やすべきだし、燃やしていいんだ』」
ディードリヒはそっとリリーナと繋いでいた手を離すと、スラックスのポケットからマッチを一箱取り出す。そして彼は箱から一本のマッチを取り出すとそのまま迷うことなく火を付け、そのまま木箱の中の写真に落とした。
するとすぐに、シーツにシミが広がっていくように写真たちを燃やしていく。印画紙に刷り込まれたインクが火に注がれた油のような役割を果たして、瞬く間に炎は燃え広がっていった。
「僕はやったことに後悔は一つもしてないよ。君の欠片が一つでも多く集まるのは喜ばしいことで、何も不都合なんてない。でもそれは僕の意見だ」
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