ぼくを支えてくれる大切な言葉
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「姉様、義兄様!」
言葉と共にルーエが待ち合わせ場所に到着したリリーナたちの元に駆け寄ってくる。結婚式を明後日に控えた今日は、リリーナとルーベンシュタイン家の面々が長く触れ合う最後ともなるやもしれない機会だ。
式が終わり次第リリーナは籍をフレーメンに移すわけだが、それはつまり書類上リリーナはルーベンシュタイン家の人間でなくなるということでもある。それに加えてフレーメンでのリリーナ、そしてパンドラでの両親やルーエのスケジュールから考えるに面会するだけでも機会は限られてくるだろう。
それ故にある種“最後の思い出作り”のような感覚でリリーナの両親が「出かけないか」とリリーナとディードリヒに事前に提案をしていたのである。
この提案にディードリヒは最初「僕はルーベンシュタインの人間ではないから」と渋っていたが、リリーナが「もう家族だとお父様は言っていたではありませんか」と説得し今日も顔を出していた。
「ルーエ! 久しぶりですわ」
「はい。姉様、義兄様!」
二人に機嫌のいい笑顔を向けるルーエの纏う空気は変わらず人懐こく柔らかいもの。しかし今日の彼はリリーナに容易に触れるようなことはなかった。
確かに家族である故他人より距離は近いが、それでも己の立ち位置を正確に把握していることが伝わってくる。
「ルーエ、少し大きくなったか?」
「そうなんです。最近身長が急に伸びるようになって」
「そんな時期か…服の替えが大変になるな」
「はい、今は少し大きめに服を作ってもらっています」
元来成長期ではあったが、ルーエの背が伸びるのは時期が少し遅かったようだ。しかし少し見ないうちに彼の身長は大きく伸び、以前ルーベンシュタイン邸にて会った彼はリリーナより少し背が大きい程度であったが、今やリリーナとディードリヒが彼を挟むと綺麗に段差になる程度まで大きくなっている。
「こらこら、子供たちが元気なのは嬉しいが、今日ばかりはお父様たちも忘れないでくれよ」
「「お父様!」」
言いながら、少し困った様子で子供たちの間に割り込んできたのはリリーナと今やルーエの父でもであるマルクスだ。普段ならば妻であるエルーシアと共に仲のいい子供達を眺めているところではあるのだが、今日ばかりはしゃしゃり出ることを許されたい。
「そうね、今日はもっと三人とお話したいわ」
マルクスの後に続くようにやってきたエルーシアは今日も淑やかに微笑んでいる。今日はいつもまとめ上げている髪を下ろし、リリーナと同じピンクブロンドの腰まで至る長い髪がそよ風に揺れていた。
「ルーエ、お父様の呼び方が…」
「それは、お二人がそう呼んでほしいと…姉様はお嫌でしたか?」
ふと気づいた変化をリリーナが口にすると、ルーエは申し訳なさの中に少しだけ照れが混ざったような様子で答える。彼はリリーナが呼び方の変化を嫌がっているように感じたようだ。
だがリリーナは大きな動作で首を横に振ると、柔らかな笑顔を見せる。
「嫌などありませんわ。本当にルーエが弟になったのだと嬉しく思ったのです」
「姉様…! 僕も姉様の弟になれて嬉しいです! よろしくお願いします!」
「勿論ですわ! こちらこそよろしくお願いしますわね!」
きゃいきゃいとはしゃぎながら喜びを分かち合う二人をそっとしておこうというように、ディードリヒがそっとマルクスとエルーシアへ問う。
「本当に僕まで良かったのでしょうか? せっかく式の前の大切な時間だというのに…」
「何を言いますか。殿下ももう我が家の家族なのですから、何も気にすることなどありません」
「その通りですわ、お気になさらないで。ルーエなんて昨日は殿下に会えるとなってずっとそわそわしていたのですから」
ふふふ、と昨日を思い出したエルーシアが口元に手を当て微笑む。
ディードリヒはルーベンシュタイン家の温かさに、不器用な姿ではありながらも本心から微笑んで返した。
「ありがとうございます、お二人とも」
不器用な笑顔に温かな笑みを返すマルクスとエルーシア。それからマルクスは未だはしゃいでいる子供達に向かって声をかけた、
「ほら二人とも、はしゃいでばかりいないで移動するぞ。今日はサーカスを見に行くんだろう?」
「そうでしたわ、今参ります! ほらルーエも行きますわよ!」
「わっ、待ってください姉様!」
流れるようにマルクスたちの元へ移動を始めるリリーナと、それに慌ててついていくルーエ。その姿を見てやれやれと軽く首を振ったマルクスは、ふとディードリヒの胸元に下げられたものに今気づいたような仕草で彼に問いかけた。
「殿下は今日も写真機をお持ちなのですね?」
「リリーナとの思い出を一つでも多く残したいですから。よければまた皆で撮りませんか?」
「言わせてしまって申し訳ない。是非お願いします」
もしかしたらマルクスはこの話を切り出すタイミングを少し悩んでいたのかもしれない、とディードリヒは会話の中でふと考える。そう思うと、マルクスに優しく有能なだけでない少し人間味のある部分を感じて親近感のようなものが湧いた。
そしてマルクスとディードリヒの会話を聞いていたリリーナたちはひと足さきに写真に映る準備を始めていて、リリーナが「早くいらしてくださいませ!」とこちらを呼んでいる。呼びかけにディードリヒは「今行くよ!」と答えると、護衛としてついていたミソラにカメラを渡しリリーナたちに合流した。
「では撮らせていただきます。三、二、一…」
そして陽の光の元、カシャリとシャッターの音が響く。
***
すっかり夕暮れとなった首都郊外を馬車が走っている。リリーナ一行は昼にサーカスを楽しみ、演目を見終えた今は中心部でお茶でもしようとという話になり移動している最中だ。
現在は四人乗りの馬車が二台連なって走っており、片方にはリリーナと両親であるルーベンシュタイン夫妻が、もう片方にはルーエとディードリヒが乗車している。
馬車の振り分けはルーエの発案であった。長く両親と会えなくなるリリーナに気を遣い、少しでも多く話ができるようにと。
「義兄様」
「どうした、ルーエ」
「ぼく、義兄様に話したいことがあって」
話を切り出したルーエの瞳は喜ばしく輝いている。そしてその眩い輝きは真っ直ぐと尊敬している義兄に向かって伸びていた。
「あの時義兄様とお話させてもらえて良かったと思っているんです」
「あの時…? 空き地で話した時か?」
「そうです!覚えていてくださったんですね!」
「覚えてるも何も、ルーエと長く話したのはあそこくらいじゃないか」
「あっ…確かにそうですね」
共通の思い出が双方にあることを喜んだのも束の間、そもそも思い出すほどのことが少ないと指摘され顔を赤くするルーエ。
そんな彼に「気にしなくていい」と言葉を返し、ルーエはそれに一つ礼を伝えて言葉を続けた。
「あの時、義兄様が『諦めないことだ』と話をしてくださらなかったら、今の生活でこんなに学ぶことがあることを受け入れられなかったかもしれないと…先日思ったんです」
「今のお前には、学ぶことは多いだろうな」
「そうなんです…右も左も聞いたことのない言葉ばかりで大変ですけど、あの時弱いぼくの話を義兄様は聞いてくれて、そして背中を叩いてくれました。ぼくはそれにお礼が言いたいんです」
そう言って、ルーエは一枚の紙を懐から取り出す。折られたメモ用紙のようなそれをルーエはそっと開き、何度も読み直したそれをもう一度確認した。
「姉様のようになることを諦めない傍で、ぼくはぼくとしての結果を目指す…あのお話は今も励みになっていて、こうして紙に書いて時折見返しています」
メモを見ながら話すルーエの表情はとても晴れやかで、ディードリヒは少し嬉しくなる。自分のような若輩者の言葉でも、彼に何か届いたのであれば悪い気はしない。
「義兄様とあの時話していなかったら、ぼくは“今自分にできること”がなんなのかをわからないままずっと悩んでいたように思います。“なんでもできる姉様”の代わりになれないって…でもそれは当たり前のことなんだって義兄様は気づかせてくれた」
「そんな大層なことはしていない。僕はあくまで僕の所感を言っただけだ」
「もしそうだとしても、義兄様から聞いたお話だったから素直に信じることができたんだと思います。義兄様の想いとか、経験、何を考えてきたのか…その断片の一つ一つが僕を励ましてくれました」
ルーエはそう言って嬉しそうに笑っているが、ディードリヒは喜ばしい感情と同時に強い不安に駆られた。
なぜ彼はこうも捻くれた人間の言葉をすんなりと信じ込んでしまうのだろうか…本当に彼はあの薄汚いパンドラの貴族の家の人間なのかさえ怪しくなってくる。
さらにこの純粋な人間が薄汚い政治の世界に入っていこうなど、やらせてはいけないような気がしてしまう。この純粋さが穢れることはそれこそ惜しまれるべきことではないだろうか。
騙されて身が転落していくかこの純粋さが失われるか…何にせよディードリヒの中には不安が大きく残る。
「ルーエ…あまり人がいいと騙されるぞ」
「それはマルクスお父様にもよく言われます。僕は優しすぎる、って…確かにルーベンシュタインのお家に入って半年ですが、政治に関する勉強をしていると自分でもなんというか…頭脳が足りてないと思うところも多いです」
「頭脳の問題ではなくてだな…もっと他人に警戒心を持って接するべきだと言ってるんだ」
姑息な手段に騙されて何かことが大きくなってからでは遅い。傷つくのはルーエ自身だ。
確かに家名に泥を塗ることにもなるだろうが、それも踏まえて本人に大きな傷が残るだろう。
貴族議員たちを相手にするというのはそれだけ面倒で、警戒を怠れず、相手を常に上回れなければいけない。それはとても容易ではなく、周囲に味方もいないかもしれない環境でやっていくのは至難の業だ。
故に他人を容易に信じてしまうこの純粋さは、あまりにもあのような薄汚く利益重視の場所には向いていない。本来であればとてもルーエが行くような場所ではないのだ。
だが、そんな心配をするディードリヒに対してルーエはとびきりの笑顔を見せる。
「ご心配ありがとうございます、義兄様。ですが大丈夫です、ぼくのこのとぼけたようなところは武器になるとエルーシアお母様が教えてくださいました!」
「…は?」
「ぼくがぼくのままでいたとしても、正しい知識と頭脳、それに判断ができる経験があればむしろ強みになるとエルーシアお母様は教えてくださいました。今回はフレーメンのオイレンブルグ公爵様ともお仕事ができたので、今後に経験を活かしたいと思います!」
「…」
満面の笑みで将来に希望を抱くルーエから飛び出た言葉に絶句するディードリヒ。
つまるところエルーシアは天然物の腹黒男を作ろうと計画し、それをさもいいことのようにルーエに吹き込んでいるようだ。ルーエの明るく純粋で優しい側面を保ったまま知識と経験を積ませることで自然と他人をコントロールできる術を身につけさせようとしている。
確かに成功すれば得るもののとても大きな計画だが、彼の純粋さを保てるかどうかにかかっている部分を踏まえるとやや困難にも見える。そしてそれを計画したエルーシアの腹が誰よりも黒い。
計算高く腹は黒いが本心から優しい天性の才…しかも本人に腹の黒い自覚もなく時折天然とくれば、人間関係において隙はないだろう。
道徳的な人間性と合理的な思考を持った人間が知恵と知識を身につけることほど世の中恐ろしいこともない。
「オイレンブルグ公爵様は寡黙で格好いい方なのですね! 頼り甲斐があるといいますか、とても威厳のある方で…最初は少し緊張しましたがお話してみるととても誠実で優しい印象を覚えました。ぼくもあんな落ち着きがほしいです」
「そうか…」
確かに何も知らずに見るキーガン・オイレンブルグは寡黙で少し恐ろしい人物に見えるだろう、とディードリヒはそっと窓へ視線を逸らす。
実際ルーエの言っていることに間違いはないのだが、その実娘に弱い不器用な父親なのだと知ったら彼はどのような顔をするのだろうか。夢を壊してしまいそうでディードリヒには真実を言うことが憚られる。
「マルクスお父様を見ていても思いますが、やはりお二人の落ち着いた姿は長年の経験によるものなのでしょうか…もしそうだとしたら僕はもっと頑張らないといけません」
「経験からくるもので間違いないだろう。経験というのは信じ込まなければいいパートナーになってくれる」
「“信じ込まない”とはどういうことですか?」
「経験がくれるのはあくまで既視感とヒントだ。必ず経験に基づいた判断が功を奏するとは限らないということだが、そのヒントの多さは確実に自信や心の余裕につながっていく」
「そういうことだったんですね…! 勉強になります!」
ディードリヒが一つ話をする度にルーエは目を輝かせているが、生憎ディードリヒにその感情の昂りは理解できそうにない。
自分で話をした後に少しばかり説教くさかっただろうか、と考えてしまう言葉たちに目を輝かされてしまうとそれはそれで複雑な心境になってしまう。
「あ、あぁ…それはよかった」
おかげで彼の純粋な視線を直視できない自分が変わらず存在している。いつ見てもルーエは自分とは正反対だとディードリヒは思う。
それ故だろうか、背中を押してやりたいと思うのは。
「えっと、それから…待ってください、義兄様に話したいことがたくさんあるんです。どれから話そうかな…」
「焦らなくていい、目的地までまだ時間はある」
「ありがとうございます義兄様! えっと、だったら…」
ルーエは指折り数えながら用意した話題の中で次の話題を選抜していく。それからすぐに何か閃いたのか、彼はディードリヒにまた明るい笑顔を向けた。
原稿が上がったら絶対に相方にまず読んでもらうのですが、その中でも「今回印象的だった話はあるか」と毎度訊くようにしています
相方は基本的に物語に対する感情移入が薄く、かといってこれまで読書を重ねた経験から面白さや話が破綻していないかなどをきちんと判断してくれるのでとても助かっています
で、今回の七巻の中で訊いた印象的な話の中に「ルーエを天然ピュア腹黒にしようと画策してるエルーシアママが一番腹黒いとは思った」と返ってきて爆笑しました。あんまりそこまで考えてなかったけど言われてみれば作中今のところ一番腹が黒いですね…あんなに優しい人なのに
ですがルーエくんは素直でものの吸収力が高いので本当にそうなってしまうような気がします。そんな人間つかみどころがなくて厄介この上ないですね
しかもディードリヒみたいに助言してくれる人もいるわけだし、とんでもないぜ
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