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謝罪と謝罪(3)


「…リリーナが、その“勝てる人間がいなくなるまで”にどれだけの代償を払ったのか、貴方はわかっているのか?」


 低い、低い怒りの声が部屋に落ちる。

 それは紛れもない、リリーナ・ルーベンシュタインという一人の人間を誰よりも尊敬し、追いかけ、愛した一人の男の強い憤りを示す声。


「眠る時間を削って教養を身につけ、子供では到底できない訓練を繰り返し、怪我を隠しながらステップを重ねて、分析と研究を重ねた芸術を体に叩き込み、その全てを持って己のあるべき場所のために全てを費やしたリリーナ・ルーベンシュタインの全てを知った上で、お前は発言しているのか?」


 一見、声音はとても冷静で静かだ。

 しかし相手を敬う言葉を捨て去ったその問い詰めるような言葉から滲み出るのは全て憎しみと怒り、そしてあの頃の彼女を守れなかった悔しさ。溶岩のように触れることもできない熱を持ったそのどろりとした感情は彼の心の全てを暗い感情で覆い尽くして、理性を溶かしていく。


 見開いた目は相手を刺し貫くほど鋭い視線を向け、リリーナを抱きしめる腕は彼女を守ように強くも労わるような力がこもっている。

 だが彼はなぜここまでして感情を抑えているのだろう、そうリリーナは思った。普段の彼ならば、自分が侮辱されているというのにこうまでして感情を抑えて話すなど想像もできやしないほどなのに。


「やればそれなりの結果が出る人間にはわからないだろう。そしてその“それなり”から育つことのない人間にはわかるまい、這い上がった人間の苦しみや痛みや、挫折の虚しさなど」

「…」

「マイヤー嬢が何を思って貴方といるのかはわからないが、貴方の言葉は全て己を甘やかすための言い訳だ。決意も覚悟もないその場の感情の言葉でしかない。そんな奴がリリーナを恐れないわけがないだろう」


 リリーナは全てを成し遂げてきたのだ。

 目の前にあるものの全てに食らいついて、目標が達成されたらまだ次の苦痛へ迷いなく進んでいく。それはリリーナが無意識に持っている覚悟の現れだ。彼女が常に口にしているように、己の立場に対する責任を果たすための覚悟の一つ。


 だがリヒターがその領域に至ることはなかった。簡単に人より結果が出ることに満足し、一方的に努力を蔑ろにして己を甘やかしここまで至っている。

 そんな怠惰な人間がリリーナのような狂気に身を投じる人間の、その最も整えられた姿を見て恐怖しないわけがない。

 彼女の積み重ねた狂気は、その“完璧性”の向こうにいつも滲み出ているのだから。


「これ以上己を甘やかすためにリリーナを侮辱してみろ。次の一言で僕はお前をここで殺す覚悟がある」


 ディードリヒはそう言い切って、その言葉に激しい感情の全てを隠さず己の全てに乗せた。殺気立った表情はより険しく、静かだったはずの声音は相手を脅すような強い語気に変わって、リリーナを抱きしめる愛に満ちているはずの立ち姿には言外の憎しみと恨みと怒りを込めて。


 そしてディードリヒは、リリーナを侮辱した男(リヒター)の全てを否定する。

 そもそもリリーナを否定する存在など全て滅べばいいというのに。

 彼女は何にも代えることのできない至高の女神であり、その全てに見合うものを彼女は自分の力で勝ち取ってきた。


 それなのに、最も近くで彼女を見ていたはずの人間がその狂気に気づかず目先の結果だけでものを決めようなど、その時点で侮辱に他ならない。

 まして相手はそれでリリーナが“周囲を見下している”などという被害妄想を押し付け彼女を否定した。


 自分は相手を何度殺したら気が済むだろうと、ディードリヒは考える。

 いや、絶対に気が済むことなどない。あの屑野郎の四肢をもぎ、内臓を粉微塵にして、脳漿を踏み潰そうが、それを何度繰り返そうがリリーナを侮辱し続けた罪が消えるわけではないのだから。


「…そうだな」


 だがリヒターは、ディードリヒの言葉にとても静かな声音を返した。その声音はとても穏やかに、相手の言葉に納得しているように見えて、あまりにも素直な姿にオデッサがまず驚いた顔を見せる。


「ルーベンシュタイン嬢…いや、リリーナ」

「…名前で呼ばないでくださいませ」

「あぁ、そうだな…もうお前は“あの頃”のお前じゃない」


 リリーナの拒否に、リヒターは自嘲気味にそう述べて強く拳を握った。まるで時は戻らないのだった、と噛み締めるように。


「お前は、気がついたらなんでもできるようになったわけじゃなかったんだな」

「血反吐を吐くことが答えだった程度には」

「…そうか」


 少し警戒した様子でディードリヒから一度離れた彼女の言葉に、リヒターは一つ納得したように呟いてから、静かに頭を下げた。


「すまなかった。今この瞬間まで俺はお前を勘違いしていた」

「…王子殿下」

「元々、ここにはお前に正式な謝罪をし二度と同じ罪を繰り返さないためのけじめとして来たんだ。それが蓋を開けてみたら隣にいたはずの人間の薄皮一枚奥すら見えていなかったとは…笑い話にもならないな」


 その謝罪を見たリリーナは、初めて正面から彼がこちらに謝っているような感覚を覚える。

 目の前の彼と今日ここまで見た彼の違いは、確かに込められた感情の違いだろう。ここまでのどこか形式ばった謝罪はもうそこにはなく、言葉にはできない強い思いがその行動からは感じ取れる。


「やったことは当然償うべきだ。ルーベンシュタイン嬢は先ほど『特に言うこともない』と言っていたが、それは解決に至らない。俺は貴女に正しく罪を償うべきなんだ、それこそ貴女の積み重ねてきたものを才能だと思い込み、それを憎み恐れたその瞬間から」


 ディードリヒの強い憎しみに、リヒターはやっと目が覚めたような感覚を覚えた。

 リリーナは本当に血反吐を吐くような努力を続けて来たのだと、ディードリヒのあの姿を、あの感情を見れば素直に理解できる。

 あれは本当にリリーナの一つ奥の姿を知っている故の怒りで、対して自分はたった一歩奥に進むだけで見えたはずのそれを見ようともしなかった。見ようともしないでただ“自分より優れている”と思い込んで彼女を恐れ否定したのは誰でもない自分。


 なんと愚かなことだろうかと、今ならば思える。こんなことではオデッサに別れ話をされても仕方なかった、自分は取り返しのつかないことをするほど心無い人間だったのだから。

 そのことをやっとはっきりと理解できた時、やっと一つの覚悟がぶれなくなった気がした。


「本当に申し訳なかった。貴女の言う通り、関係の解消に関しても最初からダメ元で話をするべきだった。物では解決できないだろうが、できることはさせてもらう。そしてこの罪を忘れることはしない…すまなかった」

「…」


 ここまで真摯に覚悟の決まったリヒターを見たことがあっただろうか、とそう考えてしまい言葉を失うリリーナ。目の前の彼に対してリリーナは驚かないでいられなかった。

 リヒターとリリーナは長い付き合いだが、彼女から見たリヒターというのは本当に根性もなくリリーナと向き合うこともできず他愛のない話しかできないくせに、無駄に捻くれていてどこかで自分が人よりできる人間だと自覚があるような、そんなリリーナにとっても嫌味のような人間だったはずなのに。


 リリーナは自分が努力を重ねて生きて来たからこそ、自分と同じように積み重ねのある人間は見ていればわかる。だがリヒターにそれを感じたことはなく、むしろ彼は最初の一回こそできないことも数回行えばあっさり人より結果を出せてしまう人間だということをリリーナは知っていた。

 そしてリヒターは、自分がそういった才のある人間故に周囲の人間も“やってみればできる”とどこかで思っているのが透けて見えるような人間でもある。それ故に彼はできないことに対して気持ちが強くなく逃げ癖があり、無意識的に他人を下に見ていないと自己を保てないような矮小な人間、であったはずなのに。


 目の前のリヒターは明らかに正面から己の罪を認め、自分に向かって謝罪をしている。そして行ったことだけでなくそれ以前の感情から間違っていたと言ってどちらにも謝罪をしているのだ。

 この光景に驚かないでいられるだろうか、いや難しいだろう。その驚き故に、リリーナは今言葉を失っているのだから。


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