これは私のエゴだけど(5)
「寝る間を惜しむ勉学の積み重ねも、怪我を隠しながら続けるステップの積み重ねも、全ては大切なもののためにあります。だからこそ、私と同じようになってしまうのはお勧めできません」
「そう…なんですか?」
てっきり“その程度の覚悟もないならば”と叱咤されることを覚悟していたオデッサは、リリーナから溢れた言葉に拍子抜けしてしまう。
だがリリーナからすれば、このような実体験などそもそも言ってはいけないとさえ考える。こんなことを言ってしまったらオデッサが何かの拍子で真似をしてしまうかもしれない。そんなことになってはいけないのだ。
「私を目指すということは、大切なものを全て捨てるということですわ。それは家族や友人ではありません、自分が守るべき自分を捨てるということ。私はフレーメンにきてそれをほんの僅かに取り戻したように思いますが、誰もがそう在れるとは限りませんもの」
「なら、私はどうしたら…」
「それは貴女が匙加減を決めることでしてよ。私は自らの貴族としての在り方に絶対的な自信がありますが、貴女の中の尺度の何を持って貴女がその“自信”とするかは貴女にしかわかりませんもの」
尺度というものは、本当に十人十色と言える。誰のものさしがどんな長さで、どんな形状で、どのようにメモリが刻まれているかなど本人にしかわからない。
だから自分で決めなくてはいけないのだ。自分の自由意志とはその尺度のどこを切り取って何を決めるかを確かめ選択をするためにあるとリリーナは考えている。
「自分を見失ってはいけませんわ。そして同じだけ何を目標にそこへ向かうのかも忘れてはいけません。私と同じだけのことができるようになることと、私のようになることは別であるということを肝に銘じておきなさい」
「リリーナ様…」
オデッサはリリーナに向かって驚きを感じた表情を隠さなかった。しかしその表情は同時に「意外だ」と言いつつ嬉しそうにしているようにも見える。そしてそんなオデッサにリリーナも隠さず怪訝な表情を表した。
「…なんですの、その顔は」
「なんていうか…リリーナ様がこんなに素直にものを教えてくれることに驚いています」
「あら、でしたら貴女もリヒター様を連れて一週間ほどこちらで過ごしては如何? プライベートで滞在すればあっさりと腑抜けてあのような場所には帰りたくなくなりますわよ」
「魅力的なお誘いですが、今はまだ難しいお話ですね…」
はは…と乾いた苦笑いを見せるオデッサ。
リリーナの言っていることに嘘は感じないのでそれだけフレーメン王国は穏やかで過ごしやすいのだろうが、オデッサにとって今はまだ気を抜ける状況ではない。
自分とリヒターは、ここまでのごたつきの影響でつい先日ようやく正式な婚約が済んだばかりだ。本当に籍を入れるまでは、いや子供が産まれるまでは油断ができない。
「でもリリーナ様は本当に変わられましたね」
「自分でもそう思いますわ。最近の私は常に口の中に綿菓子でも入っているような感覚ですもの」
「確かにこんなに嫌味の少ないリリーナ様って意外ですけど…でも変わってないようにも思います」
「…なんですの貴女は、二枚舌は嫌われますわよ」
リリーナの怪訝な顔にオデッサは「あはは…」と困ったように小さく笑う。それから少しリラックスしたような普段の彼女の人懐こい笑顔でオデッサは言葉を続けた。
「どっちも本当なんです。リリーナ様は変わらず優しくて、とっても素直な方に変わられました。だからやっぱり私はリリーナ様を勘違いしていたと改めて思います」
そう言ったオデッサはゆっくりと席を立ちそれから再び頭を深く下げる。
「だからここまでのことをきちんと謝らせてください。私が謝った程度で許されないことなのはわかっています。こんなことで貴女の失った一年が帰ってこないことも、ご両親のところに帰るだけのことが突然当たり前でなくなってしまったことも」
「…」
「それでも私には、私とリヒター様には謝罪する義務がある。明日ご一緒させていただくディナーにて改めて謝罪させていただきますが、貴女のことを理解できていなかったのは別の話で、それなのに私のつまらない話にも付き合ってもらってしまって。本当にごめんなさい」
長い謝罪と共に、オデッサは頭を下げ続ける。リリーナはその姿を見て、内心でため息をついてから静かに口を開いた。
「…確かに、貴女一人が頭を下げたところで何も変わりはしませんわ。そもそも自己満足の謝罪を誠意だと思わせたいのであれば他にもやるべきことがあるのではなくて?」
「リリーナ様から何かご要望がありましたら誠心誠意お応えさせていただきます。もしないとしても、私は貴女にできることを探し続けます」
「あらそうですの? それは良いことを聞きましたわ。頭を上げなさいマイヤー伯爵令嬢」
途端に機嫌よく、だが同時に何か含むようなリリーナの言葉に恐る恐る頭を上げるオデッサ。そして内心に不安を抱える彼女の目の前に座るリリーナは、何を期待するように微笑んでいた。
「まずはお座りになって。話はそれからですわ」
「は、はい…」
リリーナの機嫌の良さについてけず困惑しつつも椅子に座り直すオデッサ。そして少し緊張感で震えながら座り直すオデッサを見届けた後でリリーナは言う。
「私の要求には誠心誠意応えてくださると…貴女はそう申しましたわね?」
「はい…。私にできないことだったとしても、できる限りのことはします」
「そう。では今から貴女を“オデッサ”と呼びますわね」
「えっ!?」
リリーナが口にした思わぬ“要求”にオデッサは思わず大きな動揺が口をついた。その大きく開いた口に向かってリリーナは期待通りとでも言いたげな笑顔を向ける。
「あら、そこまで驚くことでして?」
「いえ…でもそれは」
リリーナがオデッサをファーストネームで呼ぶということは、二人が一定以上の親密な仲になるということだ。少なくとも他人では済まされず、かといって立場上オデッサがリリーナの侍女になることはない。とどのつまりリリーナはオデッサに向かって「友人になろう」と言っているのだ。
しかしそれではあまりにも都合が良すぎないだろうかとオデッサは考える。
確かに、自分が今最も頼れると思っているのはリリーナだ。卑怯に他人を引きずり下ろすのではなく、常に面と向かって自分に行動してくれていた彼女の優しさにはとても頼りたくなってしまう。
だがオデッサはリヒターと離れるつもりはもうない。リリーナがリヒターを許すことはないであろうと考えると、オデッサにはリリーナの意図が読み取れなかった。
「決して貴女にとっても不都合のあるお話ではないと思いますけれど? 貴女の言った通り、貴女が私に対して誠意ある態度を続けてくださるのであれば…ですが」
「それは勿論お約束します。ですが、私の立場でそれを頂戴してしまうのはあまりにも烏滸がましいのではないでしょうか?」
「これはあくまで私からの要求であり、貴女からすれば誠意を示す行動の一つであって、貴女に基本的な拒否権は存在しませんわ。そして貴女は私に対して背信的な行為をとることも当然許されていません。でしたらこれは妥当な取引ではなくて?」
リリーナの言葉に大きな動揺が隠せないオデッサだが、リリーナの発言から汲み取れるのは事実上無条件で与えられた恩赦のようなもの。冤罪を着せられていくリリーナにも、牢に閉じ込められているリリーナにも何もできず、そもそもリリーナのことを理解しようともせず彼女を無意識で追い込んだ自分に対してあまりにも釣り合っていない。
「妥当なんて…むしろ私に利がありすぎます。私はリリーナ様のことを傷つけて、なんの力になることもできなかったんですよ?」
「それを言い始めてしまったら私は貴女を虐げていたわけですが…貴女がそれに謝罪を求めないのは何故なのでしょう? それはそれで不公平ですし、貴女が私からの謝罪や賠償を求めるのでしたらそれは勿論お応えさせていただきますわ」
「賠償!? 私は少しの間苦しい思いをしただけで、リリーナ様みたいに人生に大きな何かがあったわけではありません。それなのに賠償なんて…」
「でしたら互いの立場は“お互い様”ということにして新しい関係を結んだ方が建設的ではありませんこと? これ以上は水掛け論ですわ」
リリーナが言っていることは見方を変えれば屁理屈に近い。オデッサからすれば何故リリーナがそこまでして自分に恩赦をかけたいのかわからないが、確かにこれ以上の問答は平行線で進むだろうと判断し一度閉口する。
「沈黙は肯定。取引が成立して何よりですわ」
「…本当にいいんですか?」
「私から言い始めたのですから不安も何もなくってよ」
話が進むごとにリリーナの意図がますますわからなくなっていき怪訝な感情を隠せないオデッサの視線を、リリーナは何も気にすることなく受けている。
その余裕な様子に、オデッサは静かに口を開いた。
「私のこと、可哀想って思ったんですか?」
「何故そう思うのです?」
「…私が『リリーナ様しか頼れない』って言ったから」
言いながら、オデッサは悔しげに目を伏せ膝上に置かれた手をぎゅっと握りしめる。そして無力な自分への悔しさに揺さぶられる心を保とうと必死に支えた。
しかしリリーナは、
「はっ」
そんな彼女を鼻で笑い、眼前にある弱気な姿を一蹴する。
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