これは私のエゴだけど(1)
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つい昨日パンドラ国王妃ハリエットとの諍いの種が発生した最中、今日リリーナはオデッサに急な呼び出しを受け王城内の一室を訪れている。
故郷にいた頃にそんなことは無かった、とつい考えてしまうリリーナは急な事態に嫌な予感を感じないではいられない。
しかしこれといって断るような理由も見当たらず、昨日のハリエットに関して何か探りを入れられないかという思いから今日彼女はこの場に足を運んでいた。
指定されたのはオデッサに与えられた客間。リリーナと侍女として同伴しているミソラ、ファリカがそのドアの前に立つと、予め待機していたオデッサの侍女と思しき女性が部屋にノックをしてオデッサに自分の来訪を伝える。それから今は一時的に部屋の主であるオデッサの返事を待って使用人が客間のドアを開ける。
そして開かれたドアの奥には一人、美しいカーテシーのポーズで頭を下げるオデッサの姿があった。
「「…」」
だがオデッサがこの部屋で初めに声を出すことはない。リリーナは“本来そうであるべきだ”とわかっていてほんのしばし黙り込み、自分を部屋に残し閉められたドアを背にしたまま、十秒ほど彼女をじっと見つめる。
パンドラにおいて、自分より上位の貴族が同室にいる場合、下位の貴族には最初に発言する権利が与えられていない。必ず沈黙したままカーテシーのポーズで上位の人間を出迎え、相手が発言を許すまで沈黙するのがマナーだ。
勿論パーティや外交の場では別だが、お茶会などの小規模な集まりではこういったルールがマナーとして存在している。
そしてオデッサはリリーナの国籍がまだパンドラに置かれたままであることを承知している証拠として、リリーナを自国の自らよりも上位の貴族令嬢として扱いカーテシーと沈黙で出迎えたのだ。
本当にあの頃とは見違えたようだ、とそうリリーナは素直に思う。少なくともリリーナの中では、故郷にいた頃のオデッサにリリーナの今の立ち位置を正確に把握しましてやその状況に合わせてマナーを合わせる姿など想像もできなかった。
「…もうよろしくてよ、マイヤー伯爵令嬢」
リリーナの言葉を皮切りにしてこの場は始まる。オデッサはリリーナの許しに感謝をするようにゆっくりと頭を上げた。
「ありがとうございます。リリーナ・ルーベンシュタイン様」
落ち着いた様子で視線を上げたオデッサは、しっかりと真っ直ぐにリリーナを見つめ感謝を述べる。頭を上げた彼女の両手の指先は腹の前で揃って重ねられ、背筋は正しく、何より心に不安や恐怖はなく安定した冷静さを持っていた。
「改めまして本日は急なお呼び出にも関わらずお越しくださりありがとうございます。まずはお席へ」
オデッサは一歩横へ引き、リリーナを室内に置かれたテーブルへと促す。温かな紅茶とと焼き菓子が用意されたテーブルには、リリーナの好きな百合を中心とした小さな花籠が添えられていた。
「ありがとう」
リリーナは礼を一つ述べると、部屋で紅茶を淹れていた使用人が引いた椅子に腰掛ける。オデッサはリリーナに続き椅子に腰掛け、使用人を部屋から下がらせるとリリーナにその直線的な視線を戻した。
「本日お呼びさせていただきましたのは、ルーベンシュタイン様に」
「お待ちになって」
最初に話を切り出したオデッサに対して、リリーナは一度制止をかける。それに驚いたオデッサは一瞬固まるも、すぐに冷静さを取り戻し一度口を閉じた。
「話をする前に、まずは互いの立場を確認しましょう」
「立場…でございますか?」
「えぇ。いつの間にルーディ伯爵令嬢は私のことを“ルーベンシュタイン”の名で呼ぶようになったのかと思いまして」
「!?」
リリーナの言葉に大きな動揺を見せるオデッサ。彼女が驚いているのは、紛れもなくリリーナの発言に対してだ。
だがリリーナの態度はオデッサに対して少しばかり呆れているようにも見える。その姿はますますオデッサを混乱させた。
「この私を、無礼にも初対面からファーストネームで呼んだ伯爵令嬢はどなただったかしら? 今更になって怯むようでしたら初めからそのような愚行は行うべきでは無かったのではなくて?」
「…申し訳ございません。それは私が未熟で無知であった故の過ちでございます。ルーベンシュタイン様にはこれまで大変なご無礼を」
「今更謝罪を述べても遅いというものですわ。そのような表向きの謝罪などよりも大切なことが目の前にはあると思うのですが」
「…」
一見嫌味にすら聞こえるその言葉にオデッサは一度押し黙る。オデッサにはリリーナの伝えたいことがわかっているようにも見えるが、行き着いた答えに自信が持てないようだ。
「はぁ…多少は成長したのかと思いましたが、少し買い被ってしまったでしょうか…相変わらず貴女は無駄口を叩くばかりでその内には虚勢しかないと捉えてよろしくて?」
「それは」
「…それは?」
リリーナはオデッサを見定めるような目で見ている。そんな彼女にオデッサは負けじと自らを試す視線に強い意志で返した。
「もう吠えるだけの子供ではないつもりです。リリーナ様」
オデッサの一言に、リリーナは持ってきた扇を開き口元を隠す。扇の向こうから見える目元こそ冷めて見えるが、隠れた口元はわずかに微笑んでいた。
「そうは言いましても。鈍いのは相変わらずですわね」
「リリーナ様も変わらず人を試されるのがお好きなようで」
「特段好きでもありませんわ。貴女にわかりやすくしたまでです」
パンドラでこの程度の嫌味は挨拶のようなものである。少しでも仲が険悪であればもっと互いを貶すような煽ても珍しくはない。
確かに今回リリーナは多少オデッサを試しはしたが、フレーメンに来て自分でも想像がつかないほど丸くなってしまった自分を突然見ても混乱するだろうと相手に合わせたまでだ。それでさえ生ぬるくなったものだとリリーナは自らに呆れてすらいる。
「…そういう、不器用なところは変わらないんですね」
「不器用? 私に言っていますの?」
「相手に圧力をかけているように見えるのに裏で気を遣ってるところ…私の記憶違いじゃなくて安心しました」
「貴女、誰に何を言っているのかわかっているのでしょうね?」
オデッサの言葉に不快な感情を隠さず強く眉を顰めるリリーナ。彼女の目の前に座る鈴のような愛らしい声音の少女から紡がれる言葉たちの伝えたいことはどう考えても皮肉でしかない。それこそリリーナに“偏屈者”と説教でもしているかのようだ。
「嫌味ではないんです。ただ本当に、“あの場所”で最も正しかったのはリリーナ様だったんだと改めて実感して」
「…何を言い出すかと思えば。貴女は私を誰だと思っていますの?」
まだリリーナの存在はパンドラ社交界において“正しかった”のではなく常に“正しい”のである。
上位貴族、王族という存在は常に社交界のルールとして働き、同時にその暴力にも法にもなる力にある責任を全うしなければならない義務が上位の立場の人間には存在するのだ。
それは強い発言権を持つ存在であるからこそ人として過ちは起こせないという戒めでもある。今この場でそれを改めて口にするなど、ものを理解していないか嫌味かのどちらかでしかない。
「いいえ。リリーナ様はあの場所で、貴女のいない今でも一番“正しい”。私は…あの頃の私は本当に無知で無力だったと思い知ったんです」
「…何が言いたいんですの?」
「私は何もかもを知りました。貴族のルールとマナーが指す意味も、身分不相応とは何かも、リリーナ様が人を殺してもなければ私を突き落としてなんか無かったことも」
一つ一つ言葉を口にするたび、オデッサの表情も曇っていく。だがリリーナはその姿を静かに見つめていた。
「リリーナ様がいなくなったパンドラは、今や混沌と言っていいです。元々いい場所じゃないのに、みんなをまとめて叱りつけてくれる人がいなくなってしまったから」
「…そう」
リリーナはその言葉にだけ、一瞬視線を逸らす。
自分がいないパンドラの社交界が悲惨なことになるなど、正直わかりきっていたことだ。
自ら進んでまとめ役になろうという気概があったわけでもないが、程度の差はどうあれ自分をやっかんでいた人間の数を思えば行き着く先など容易に想像できる。
「話したいことが、聞いてほしいことがたくさんあって…今私にはリリーナ様しか頼れる人がいなくて」
オデッサは深く沈んだまま目尻に涙が浮かび始めていた。
その姿は確かに痛ましく表情や態度に嘘があるようにも思えないが、同時に自分を指名する狙いもわからない。
少なくとも相手の好きにさせていいような場面ではないだろう。
「貴女の言い分は勝手ですが、私が対価もなしに貴女の話を聞くとでも?」
「!」
「私はもうあの場所に関わりません。ですので貴女の愚痴を聞く理由もないというものです。もう貴女に負い目もないのですから」
リリーナは持っていた扇を畳みテーブルに置きながら言い切った。対してオデッサはリリーナの言葉に少しばかり驚くもすぐに納得したように悔しげな視線を下げ、一度深呼吸をしてからリリーナに向き直る。
「では…ハリエット様の行動はすでに制限されています。この状況では対価にならないでしょうか?」
「!」
「昨日見たハリエット様からリリーナ様への態度に少し嫌な予感がしたので、陛下にはもうお伝えしてあります。彼の方はリヒター様たちのことになると風当たりが強いので…私の言葉を信じてもらえるなら、そちらにもメリットはあると思うのですが」
「…」
現状は想定の何倍も良い方向に向かっているようだ。正直に言って、リリーナはオデッサがここまで先を読んだ行動をすでにとっているとは思っておらず不意を突かれたような気分になる。
おそらくリリーナが懸念しているファリカへの危害を読んで行動したわけではないだろうが、正直向こう側の内々で処理をしてもらえるならば一番波も立たずありがたい限りだ。
ただここで問題に上がるのは、リリーナがオデッサの言葉を信用できるか否か、である。
一応リリーナもオデッサの人となりはある程度わかっているつもりだが、それも投獄前の記憶ばかりでましてや彼女と深い仲だったわけでもない。リリーナが投獄された後にあの国の汚さに揉まれ人が変わっていてもおかしくはないし、そもそも自分が知らなかっただけで裏のある人間かもしれない…どう判断すべきかどうしても少し悩んでしまう。
「「…」」
悩むリリーナの意を汲んでか、不用意な発言を控えたオデッサとの間に訪れた沈黙。その中で自分と見つめ合うオデッサの瞳に、リリーナは懐かしいものを感じた。
紛れもなく“それ”は、いつも自分に噛み付いてきた時の正義感に満ちた強い輝き。
その瞳を前にリリーナは、小さくため息をついた。
「…いいでしょう、好きなだけお話しなさい」
「…! ありがとうございます、リリーナ様!」
リリーナの返答に安堵と喜びを返すオデッサを眺めながら、“我ながら丸くなったものだ”とリリーナは内心で自分に呆れる。それでも、あの瞳は自分の知るオデッサの瞳であった。
人として真っ直ぐで明るく、他人を信用することのできる純粋さと強い意志を持った彼女の人となりを示す瞳。
自分はついぞ手に入れられなかった、天然ものの美しい輝き。
今思えば、自分はあの美しさに嫉妬をしていたように思う。自分の周りのどこにもいない、まるで物語の主人公のように純粋で美しくはっきりとした意思の宿った瞳の輝きに。
人を無闇に疑うことなく、自分の意思や向かいたい方向がはっきりとしていて、天然石のような自然の作る美しい笑顔を持っている。
自分にない彼女のそういった部分は、とても羨ましかった。
「それで、話とは何かしら?」
「正確にはお話といいますか、今日は謝罪に来たんです」
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