やかましい、面倒臭い、相手をしたくない(1)
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「…」
ディードリヒの使っている執務室の“中では”彼の普段使っているペンが上質な紙で作られた書類の上を走る音だけが響いている。
「…」
しかし、部屋の外では五分ほど前から何やら人の声が聞こえていた。
何やら二人の人間が話をしている声がドアの向こうからちらりちらりと彼の耳には入っている。かといってその程度の音量では内容が聞き取れるわけでもなく、雑音の一種として放置していた。
「……」
だがその話し声は段々と熱量を上げ今や男の声と子供の声がはっきりと耳に入ってきている。さらに言えばドアの向こうでは言い合いが起きつつあるのか聴こえる声の音量は加速度的に大きくなっていた。つまりドアの向こうの状況は悪化しているのである。
言い合いに発展した最初こそ、どこかの貴族の子供が迷い込み見回りの騎士に怒られているのかとも思ったが、今やそんな熱量ではない。これは明らかに誰かが、誰でもない王太子ディードリヒ執務室の前で、口喧嘩をしている。
「………っ」
そして、もうすでに今日の仕事を終えリリーナが帰ってしまった執務室に一人残り、ましてやミイルズも休みの執務室で一秒もいちゃつくことを許されなかったどころか「この人は何を言っているのだろう」と言わんばかりの目で彼女を撫でようとした手を見られたディードリヒの耳にこれ以上この声を無視できるはずもなく、
「っだぁ! もう!」
眉間に深い皺を寄せながら机を殴るように立ち上がったディードリヒは、その噴火した火山のような怒りのまま乱暴にドアを開けた。
「おいお前ら! ここがどこだかわかって…」
そして、怒りの最中見たドアの向こうにいた人物にディードリヒは言葉も言い切れないままドアを高速で閉める。それから心の底から湧き上がる“面倒臭い”という感情を抑え込むために彼は苦虫を噛み潰したような顔で深呼吸をした。
確かに、確かにドアの向こうにいたのは二人とも知っている人間ではある。しかし子供の顔はまだわかっても、もう一人いた男の方は今ここにいるとは一言も聞いていない。
「なんであいつがここにいるんだ…」
ディードリヒが苦しむ表情でそう呟いたのも束の間、彼が背中を預けているドアからドン! と殴られる音と感触があった。
「ディードリヒ兄様! 今いたよね!? 開けてよ!」
「殿下! せっかく参りましたので是非ご挨拶を!」
あぁ、さっき見た光景は白昼夢ではなかったのだ、と背中から聴こえる声にディードリヒは失神しそうになっている。たとえ夢であっても見たくないが、ドアの向こうにいるのは現実にはもっと見たくない組み合わせだ。
それなのに、彼の遠くなる意識を妨げるように背中に接触したままのドアを殴られる音が加速度的に早まっていく。
「兄様! ディードリヒ兄様無視しないでよ!」
「殿下! せめて一言ご挨拶だけでも!」
ドンドンドンドンッ!
激しくドアを叩く音と大きな叫び声が彼の耳をつんざく。あぁ、どうしてこうなったのか。
しかし悲しいが相手は諦めない。つんざくほどの音が鳴り止む気配はなく、そしてずっとディードリヒを呼んでいる。
「…だぁっくそ!」
そして状況と音と振動に耐えかねた彼はそう叫びながら思いっきり執務室のドアを殴り、その手を若干痛めたままゆっくりと隙間程度にドアを開いた。
「…入れてやるから黙れ、二人ともだ」
低い低い、怒りに満ちた彼の声音を聴いたのは、ドアの向こうでディードリヒを呼んでいたルアナとラインハート。
空気が冷え込むほどの怒りを抱えたディードリヒの声に驚いた二人は息を失ったように静かになり、キィィ…と軋んだ蝶番の音と共に取り残されたドアが力無く開いていった。
***
「お前らは行儀というものを学んでいないのか?」
執務机に備えられた椅子に腰掛け、背もたれに背中を預けたまま脚を組む…正しくふんぞり返るといった様子で憤慨しているディードリヒの第一声に、執務室の客人用ソファに座るルアナがまず口を開く。
「だって兄様が今度剣術教えてくれるって言った!」
「それはお前が言い残しただけで僕は了承してないし、そもそもドアを殴っていい言い訳にならないだろ!」
柄にもなく叫ぶディードリヒ。執務室は侵入者が見つけやすいようにと敢えて最低限の人員と“影”で護衛を行う仕組みになっているので幸いすぐ騒ぎにはならないものの、今のディードリヒを普段の彼しか知らない人間が見たら目を剥くのではないだろうか。
そしてディードリヒと言い合いになりかけたルアナを見たラインハートもまた負けじと声を上げる。
「俺は招待状に従い参りました故ご挨拶に手合わせをと!」
「僕はそんな理由でお前をここに呼んでない! そもそも今日来るとも聞いていないが!?」
「そこはサプライズでございます! ご感銘いただけだでしょうか!?」
「そんなわけないだろ! 今すぐ城から叩き出すぞ馬鹿!」
なぜ昼間から子供と大人に向かって同時に説教をしなければいけないのだといっそ心が枯れる思いでディードリヒは今二人に対応していた。
百歩譲ってルアナはまだ子供で奔放な性格かつ剣術に関しての話は自分が覚えていたのでまだわかるとしよう。
しかしラインハートには「ふざけるな」としか言いようがない。仮にも一領土を持つ代表者が王族相手にふざけ倒すなど首でも刎ねられたいのだろうか。
「はっはっは、お優しい殿下がそのようなことはなさらないと、このラインハート・グレンツェはしかと胸に刻んでおります」
「ドアを殴ったのは悪かったと思ってるけど、早く兄様から剣術教えて欲しかったんだもん…」
「…」
目の前にいる人間に対するこれ以上ない面倒くささに怒りを通り越して頭を抱え始めるディードリヒ。
右も左も自分のことしか考えていないが、彼としては恋人との貴重な時間も許されないまま真面目に仕事をしているこちらの身にもなってほしい。
「その件ですルアナ殿、貴女のような子供が殿下より直々に剣術を教わろうなどと…」
「だから! 私は本当にルアナ・フレーメンなんだってば! 兄様は従兄弟だから何もおかしくないんだって!」
「確かにエドガー大公の御息女の三姉妹様は皆変わり者だとは聞いておりますが、さすがに剣術を習おうとは…信じがたい」
「も〜っ、めんどくさいなぁ! 兄様からもなんか言ってよ!」
ラインハートが実質ルアナに売った喧嘩がなぜか自分に飛び火してきた現状に“さらに面倒ごとが増えた”と内心でげんなりとするディードリヒ。
正直「勘弁してくれ」と言ってこの場から逃げたいところだが、あいにく仕事は待ってくれない上今は話をまとめる必要がある。
「グレンツェ辺境伯」
「殿下、お手紙でも申し上げましたが俺のことは気軽に名前でと!」
「いいから黙れ。とりあえずそこの女の子は本当に僕の従姉妹だ。大公家三姉妹の次女ルアナで間違いないし、剣術を習いたい酔狂な人間なのも間違いない」
すでにどっと三日分は疲れていると言って過言でないディードリヒだが、この場を放置しても面倒ごとが重なるだけだと諦めて二人には詳しい説明をすることにした。
内心では本当に全てを投げ出して今すぐにでもリリーナの胸に飛び込みたいが、今そんなことをしたら面倒が重なる上仕事が終わっていないでのリリーナに平手を喰らいかねない。
“逃げ場がない”というのはこういった状況を指すに違いないとディードリヒは内心で途方に暮れた。
「次にルアナ」
「うん?」
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