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ひだまりに眠る猫のようになりたい(2)


「ディードリヒ様!」


 彼がやってきたということだ。リリーナはその喜びで椅子から立ち上がると、玄関で靴を脱ぐディードリヒの元に向かう。


「本日もお疲れ様でございます」

「ありがとうリリーナ。もしかして椅子で寝てたの?」

「いえ…少し船を漕いでしまいましたが」

「そっか。そこで寝ちゃうのは流石に体が痛くなっちゃうし、タイミングとしてはちょうど良かったかな」


 少しばかり困ったように微笑む彼を見て、恥ずかしい思いに顔を赤くするリリーナ。我ながらはしたない…と自省していると、ディードリヒがふと奥のダイニングを見る。


「甘い香りがするね、何か作ったの?」

「今日は頂き物のジャムでクッキーを焼きましたわ。お茶請けに如何?」


 リリーナは食卓に戻ると、天板に置いたまま粗熱を冷ましていたクッキーに手をかざす。そして特に熱を感じないことを確認して“間に合った”と一つ安堵した。


「軽く片付けますので、椅子に座っていらして。すぐに紅茶をご用意しますわ」

「待って、僕がコーヒーを淹れるよ」

「よろしいんですの?」

「クッキーのお礼。片付けもやるからリリーナこそ座ってて。天板は洗ったら立てかけておけばいいかな?」

「えぇ、ではお言葉に甘えて…ありがとうございます」


 室内履きに履きかえたディードリヒは、ダイニングに向かいながらリリーナに座るよう誘導する。

 リリーナがその言葉に感謝しつつ食卓前の椅子に座り直すと、ディードリヒが棚から皿を一枚取り出してクッキーを天板から移し始めたのが見えた。

 軽い動作でクッキーを皿に盛り付けている彼を眺めながら、丁寧に盛り付けられたクッキーを見てと彼の几帳面さを感じていた時、


「あっ!」


 ディードリヒが流れるようにクッキーを一つ口に入れるのを見てしまった。リリーナは驚きのあまり椅子から立ち上がり、怒りで声を上げる。


「ディードリヒ様!」

「あはは、ごめんね。美味しそうだったからつい…」

「つい、ではありませんわ! 楽しみにしていただきたかったといいますのに!」

「リリーナならそう言うって思ってたけど、でもクッキーが僕を呼んでたんだよ〜」

「言い訳無用ですわ!」


 怒りの抑えられないリリーナに対して、困ったように謝り続けるディードリヒ。まるで目の前の誘惑に耐えきれない子供のようだが、彼がこのようなことをしたのは実は初めてである。


「もう、早くコーヒーを淹れてくださいませ!」

「わかってるよ、ちょっと待ってね」


 あはは、とディードリヒは軽く笑うと、リリーナが先ほどクッキーの生地を休ませる時にボウルの上にかけていた布巾を皿の上に被せた。

 それからポットに水を淹れて火にかけ、クッキーの乗っていた天板とリリーナが紅茶を飲んでいたカップを洗い乾かすための場所に立てかける。


「そういえば、本日は予定より少し早かったように感じますが…お仕事にご支障はございませんでしたか?」

「大丈夫。ちょっと本気出してきたんだ」

「またご無理をなさって…心配しますわ」

「ありがとう。このくらいなら大丈夫だよ」


 心配で眉を下げるリリーナに対して、ディードリヒはまた一つ軽く笑いかけた。その間にもドリップ用の器具やコーヒー豆を用意して、手動のミルで焙煎された豆を粉にしていく。


「それよりリリーナの方こそどう? この家の過ごし心地とか」

「なんと言いますか…そわそわ、しますわね」

「過ごしづらい?」

「いえ、そういったことではなく…ずるいことをしているような気分になるのです」

「あぁ…なるほどね」


 リリーナの言葉が素直に腑に落ちるディードリヒ。彼から見てまだリリーナはそれを言うであろうとは思っていた。

 この一ヶ月、リリーナが決められたルールに則って自発的にここに来たり、ディードリヒが彼女を誘ってここに来たこともあるが、何かと彼女の動作はぎこちない。


 掃除や洗濯などの家事をしているときはそうは見えないが、ベッドで横になっていたりすると何やら悶々と考えては少し緊張しているのが見て取れていた。やはり染みついた習慣を切り替えるというのは難しいのだろう。


「ですがいいことも多いですわ。この家の管理や評価を気にせず音楽に触れている時間、それにまだ慣れきってはいないですがベッドで昼寝をして…そういった時間はとても温かいですし、それに…」

「?」


 言葉の途中で口籠るリリーナに何か起きたのだろうかと振り向こうとして、服の裾を引っ張られたような感覚にやはり振り返る。するとリリーナが彼のすぐ後ろで彼の服の裾を摘んでいた。

 そしてその表情は、りんごのように真っ赤に染まっている。


「あ、貴方がいる時間は本当に…安心、しますので」


 自分で話をしておきながら気恥ずかしいのか、リリーナは言葉尻を小さくしながらすっかり俯いてしまった。ディードリヒはそんなリリーナの姿に柔らかく微笑み彼女の髪を優しく撫でる。


「それは嬉しいな。僕もリリーナがそばにいてくれるだけですごく安心するから」


 彼は彼女の髪をなん往復か優しく撫で、それからポットの湯が沸いていることに気づいた。なのでリリーナに食卓前の椅子へ戻るよう促して、コンロの火を止めるとカップの上に置かれたドリッパーに用意されたコーヒー粉に静かに湯を注いでいく。

 落ち着いたコーヒーの香りがダイニングを包み、やがて彼が淹れ終わったコーヒーを二つ食卓に置いた。そしてそれを合図にリリーナがクッキーの乗った皿にかけられていた布巾を外す。


「ありがとうございます、ディードリヒ様」

「気にしないで、これリリーナの分ね」


 ディードリヒはリリーナに持っていたカップを一つ差し出した。


「ありがとう…あぁいえ、食べましょうか」

「うん、そうしよう」


 リリーナは彼も席についたことを確認して、それからコーヒーのカップを手に取る。そしてその飲み口を鼻に近づけ、すぅ…と香りを吸い込む。紅茶とはまた違う苦味を含んだキリリとした香りが彼女を楽しませた。


 香りを楽しんだ後で彼女はコーヒーを一口、ゆっくりと飲み下す。今度は口から鼻に抜けていく香りを吸い込むのはまた違う香りと、舌に広がる苦味、酸味、渋み…そしてほのかな甘みの複雑な味わいに心弾ませた。

 口に苦味が広がり目が更に冴えたところで、今度はクッキーをつまみそのまま口に入れる。サクッと歯切れよく口の中でほろほろと崩れた生地が舌の上で解け、バターと小麦の香りとジャムの香りと甘さが広がった。


「…ん、上手くいっているようですわね」

「うん、やっぱり美味しい」

「貴方はつまみ食いをしたからそう言えるだけではありませんか。あまり繰り返すようでしたらもう作りませんわよ」

「えっそれは嫌だ…! 気をつける…」

「わかってくださればよいのです」


 つんとした様子でコーヒーをもう一口飲み下すリリーナ。こうしてコーヒーとクッキーを交互に味わうことによる味わいの変化が彼女はとても好きである。


「今日はどうしようか? 少し眠ってから戻る?」


 ディードリヒがリリーナに問う。今日はディナー前には戻る予定であるゆえに、ただ何もしないのであればそれはそれで“その予定だ”と決めるべきだと彼は考えたようだ。

 予定次第では宿泊することもないわけではないが、少なくとも今日はそこに当てはまらない。


「時間があればポーカーでもやりたいところではあったのですが…今日は何もしないというのもいいかもしれませんわね」

「あぁ、明日叔父上たちが来るから?」

「そうですわ。英気を養おうと思ったのです」


 明日はエドガー大公一家が首都にやってくる予定だ。マディはリリーナとの約束を守るために一人先乗りといった形を取ったが、実際にはエドガー本人にはレーゲン領の領主としての仕事が残っており、エリシアにはまだ子供だけで行動させるには心もとないルアナとメリセントの存在がある。なのでマディだけが一部の使用人を連れ先に大公家のタウンハウスに来ていたのだ。


「じゃあそうしようか。どうする? ベッドにいく?」

「今日はソファにいたしましょう。ディナー前に帰らなくてはいけませんから」

「わかった」


自由という感覚がイマイチわからない女、リリーナ

まぁでも彼女なりにあの家での時間を楽しめているようで何よりです

猫のように警戒心は強いのに、猫のように気ままにはなれないという…まぁそのうちなんとかなるでしょう(希望的観測)


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