ひだまりに眠る猫のようになりたい(1)
***
さる王族からリリーナが引き継いだ一軒家の二階にある一室では、バイオリンの音色が響いている。だがその音色は少しぎこちなく、繊細さには欠けていた。
とはいえ決して下手なのではなく、慣れない自由にまだ戸惑う心と身に染み付いてしまった他人の真似事が混ざってしまっているせいであろう。
だが普段の彼女の奏る音色からではとても想像がつかないその音色は、張り詰めた緊張感のない心地良さげで温かな印象の一曲であった。
そのぎこちなくも温かな音色を奏でるバイオリンには大きな百合の意匠が掘り込まれており、これは彼女が両親から贈られた大切な誕生日プレゼントである。
一曲の協奏曲を弾き終えた彼女は、そのまま数曲の弾きたい楽章を気ままに弾き、満足したのかバイオリンをスタンドに置くとそのままの足で部屋のベッドに横たわった。
「ふぅ…」
リリーナがこの一軒家に通うようになって一ヶ月ほどが経過している。週に一度はこの家で過ごすのがディードリヒと取り決めたルールなので、時間があるときに来ては特に修練を積むでもなく、仕事や社交の準備をするでもなく、彼女から見たら“何もない”時間を過ごしていた。
それでも多少はここの柔らかな雰囲気に慣れてきたのか、近頃は抵抗感の強かった昼間からベッドに横たわることも増えてきている。
バイオリンは“両親からもらったものをしまい込んでも勿体無い”とこの家に持ってきたが、他人から評価されることを前提に高評価を得るためだけの音楽ではなく、本当に気ままといった気持ちで触れるのは思っていたより心地がいい。
「そろそろ時間でしょうか…」
そう呟いて、壁にかけられた時計をちらりと確認する。針は昼過ぎを指していた。
(そろそろ行動しましょう)
五分ほど横になっていたような、体の軽い感覚でベッドから起き上がるとリリーナはそのまま一階へと移動する。台所と同じスペースに置かれた食卓には、今日持ち込んだ材料たちが置かれていた。
今日は作業があるが“まずは昼食を摂ろう”と棚から食器を取り出すと、次にキッチンの床板が持ち上げ式のドアになっている部分を開ける。その奥は地下保管庫になっており、中から袋に入ったオートミールとドライフルーツをいくらか皿に盛って食卓に置いた。
そのままその皿に牛乳を軽く注げば昼食が完成する。オートミール単体ではどうにも味気なくて苦手だったが、ドライフルーツを入れると食べやすいことに気づいてからは簡単に昼食を済ませたいときに重宝している品だ。
オートミールそのものは投獄されていた間も食べていたが、正直食感も悪く味気ない上単品では侘しい気持ちになるのでいまだに食べられはするが好きではない。
しかし手軽く食べられて長期的に保存ができ、使い道がないわけではないので工夫を凝らして食べているのが現状だ。
こういう時高級品でなければ食べられないなどと言い出す舌でなかったことを幸運に思う。正直そんなものにこだわっていても見えるものは少ないのだから。
それにオートミールもそのまま食べるだけが使い道ではない。この間試しにクッキーに混ぜて焼いたら思いの外美味しかったので、それはまた作ろうと決めている。
ここには毎日来るわけでもなければ主だって生活をしているわけではないので、どうしても鮮度を気にする食材は置きづらいのが現状だ。地下保管庫はあるので多少の備蓄はきくものの、結局使わないのであれば無駄にしてしまうだけなので今のところは運び込むのが大変な粉類とオートミールやドライフルーツなどの保管がしやすいものをここに置き、他に必要なものがあれば事前に城の調理場に話をして用意してもらったものを受け取って運び込んでいる。
「さて、取り掛かりましょう」
手早く昼食を済ませたリリーナはそのまま食器を洗って乾かすためのスペースに置き、今日の目的であるクッキー作りに取り掛かることにした。
リリーナがここを受け取るにあたって唯一わがままを言ったのがキッチンである。流石に何十年も前の建物となると水道管すら通っておらず、水は近所の井戸から汲んでくるという形になっていたため簡素なものをつけて欲しいと頼んだ。
かといって「使えればいいのですぐに設置できるものがいい」とリリーナは言ったのに対しディードリヒはオーダーメイドを訴え、そのせいで一悶着あったが。
結果として二口のガスコンロとその下に備え付けのオーブンが一つ、蛇口付きのシンクと水場をまとめるために棚のスペースが一部洗濯機に置き換わっている簡素なキッチンが設置された。おかげで食卓の置かれたダイニングがやや狭くなったが、少なくともリリーナ本人は気にしていない。
食卓に置かれた食材を手早く仕分け、棚から計量器を取り出したリリーナは慣れた手つきで材料を計っては振り分けていく。
今日作るのは少し趣向を凝らしてジャムクッキーだ。先日イドナより海外産のジャムをもらったのでそれを使用する。
「ディードリヒ様が来られる前に間に合うといいのですが…少し弾きすぎましたわね」
実はバイオリンに夢中になってしまっていたせいで少し時間が押してしまっていた。
リリーナがここで過ごす場合は毎日のお茶会もここで行なっているので、彼がくる前にクッキーを焼き上げて粗熱を覚ましてしまいたいと思うと、時間としては微妙と言ったところ。
しかしそんなことを気にしていてもクッキーは焼き上がらないので作業に取り掛かることにしたリリーナは、まず始めにオーブンを余熱にかける。
次にボウルに出して柔らかくしていたバターに砂糖をすり混ぜ、そこに溶き卵を数回に分けて少しずつ加えては混ぜていく。
明らかな分離もなく混ざったのを確認したら小麦粉をふるい入れ、泡立て器からへらに持ち替えてさっくりと混ぜ、全体から粉気がなくなりまとまれば生地は完成だ。
完成した生地の入ったボウルにふきんをかけて少し休ませたら、食卓にパン捏ね用の大きな板を置いて打ち粉を撒き生地をその上に取り出して麺棒を使い伸ばしたら型で抜いていく。
今日使うのは花形の型と小さな丸い型。生地の全量を花形の型で抜き終わったら、半分には小さな丸い型で更に穴を空け、穴を空けていないものに重ねる。穴の空いた部分にジャムを乗せたら、余熱の終わっているオーブンに入れて焼き入れが始まった。
「〜♪」
空いた時間に鼻歌でも口ずさみながら洗い物を済ませていればそれなりに時間も経ち、何度か焼き上がりを確認しながら紅茶を淹れているうちに出来上がる。
いい焼き色に仕上がったらミトンをつけてオーブンから取り出した天板を濡れた布巾の置かれた食卓に置き、このまま粗熱が冷めれば完成だ。
「ふぅ…なんとかなりましたわね」
ちらりと時計を見て確認するとまだ時間には余裕がある。ディードリヒの予定が早まるようなことがなければ無事に間に合うだろう。
一安心できたので、淹れた紅茶を飲もうと食卓前の椅子に座るリリーナ。そのままなんとなく周囲を一度見回して感慨に耽った。
「…」
“何もしなくていい”とは言われたものの、なんだかんだここに来て何もしていない日はないようにリリーナは思う。
今日のように簡単な菓子を用意したり、バイオリンを弾いて本を読んで…ただ昼寝をするのはディードリヒが誘ってきた時くらいのものだ。
ただ同時に、“責任に追われない日々”というのはこういった感覚なのだろうとも思う。
ここには本当に誰もいない、基本的に自分一人だ。
一人で掃除も洗濯も調理も行う。だが惨めな思いはなく、屈辱的だとも思わない。それは自分が自分の意思でその行動を決めて行なっているからだ。
ここには必要のない限り誰も、ディードリヒ以外の誰も入れたくなかったから家事も自分でやると決めている。あまり頻繁にきていないとはいえ冬は多少手が荒れるだろうが、そこは自分の店の自慢の品である練り香水の出番だろう。
確かにここで過ごすのは気が楽だ。椅子の背もたれに背中を預けても誰かに対し負い目を感じない時間というのは。
それでもここに孤独はない。牢にいた時のような寂しさは、ここにやってくるディードリヒが全て打ち消してくれる。
本当に不思議な感覚だ。一人でも恐れがない日がくるとは思っていなかったから。
自分が牢の中で一人だったのもたった一年だというのに、孤独であるのが恐ろしいことだとあの日々が自分の体に叩き込んだ。話し相手もおらず、屈辱的に家事は自分でやらされ、味気ない食事に硬いベッド、何もないただ過ぎていくだけの時間…。その全ては今でも恐ろしいものだ。
だがここにあるのはあくまで“自由”なのだと、誰でもないディードリヒが教えてくれる。この家には本も楽器もクッキーを焼く場所と道具もあって、自由に外に出ることができて、何より時間が合えば彼がここに来てくれて…その一つ一つが、あの頃とは違うのだと教えてくれるから。
おかげで確かに気分が少し軽い。しかしまだ慣れない自分もいて、“こんなことをしていていいのだろうか”と自分の中の何かがせっついてくる。
ここでは陽に当たる猫のようにだらけていてもいいと誰もが言うし、そうなのだろうと自分でもわかってはいるのだが…まだうまくはいかない。
そしてこの空間は、自分が如何に気を張って生活を送ってきたかを直接的に見せてくる。何かを考えずに気ままに…そんなゆったりとしたサイクルに慣れるまでにしばらくかかったが、まだ慣れきっている気もしていない。
最近では前のように今の怠惰を知らない生活の方がある意味においては楽だったのだろうとも考える。あの生活だって、何も考えなくてよかったことに変わりはない。確かにどこかで自分が壊れていたかもしれないが。
だが、今この家で過ごす時間は楽しいようにも思う。やりたいことを見つけて行動するというのは、思ったより難しいができた時の楽しさはひとしおだ。
誰もが、とは言わないが多くの人が本当は少なからずこういった“なんでもない”時間を持っているのだろう。実際ここで過ごしたあとは体が軽く、翌日起きた時にすっきりと目覚めることができる。
問題点が一つあるとするならば、ここではラフな服装で過ごそうと決めているので着替えがやや面倒なところだろうか。
城の中を歩く以上、一応周囲に気を遣ってドレスで移動し、その場合は一人で脱ぎ着することができるドレスで移動しているのだが、この家に来た時と帰る時で着替えとメイクをしなおすのはやや面倒臭い。ディードリヒはとっくにリリーナのすっぴんを知っているので、化粧を落としていいのは助かるのだが。
かといってラフな格好で城の中を歩くのは気が引ける。多くの者にとって王城は仕事場だ。そんな場所をラフな服装で歩くなどズル休みでもしているような気持ちになってしまう。
「…」
そんなことをぼーっと考えていると、ふと眠気が現れる。
流石にこんな場所で眠るのはまずいと思いつつも、うつらうつらと船を漕ぎ始めた時、
「!?」
急に音を立てて玄関のドアが開いた。玄関のドアを開けばそのままダイニングが見えるので、開いたドアの音がダイレクトに耳に飛び込み驚いて目が覚める。
そして急にドアが開いたと言うことは、
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