着せ替え人形とペテン師吸血鬼(2)
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もはやなすがままといった状態で化粧と服を替え、撮影場所である先ほどの部屋に戻り半端に開いたままのドアを開けようとドアノブに手をかけた時、少し驚く光景が目に入り思わず足を止めた。
自分が今着ているのは黒い生地に銀の糸で飾り襟の意匠が施されたブラウスに襟元のリボンは臙脂色。そして黒のコルセットの下にはパニエで膨らませたリボンと同じ臙脂色のスカートが広がっていた。髪も下ろしハーフアップに整えられ髪飾りも臙脂色のリボン、黒いタイツに臙脂色の靴と…暗く退廃的な服装の中に所々愛らしさが散りばめられている。
だがまぁそこまではいい。目の前の光景に驚いたのは、ディードリヒが自分に合わせたような服装をしていたことだ。
細い脚のラインがわかるほどタイトなスラックスに、フードと銀のボタンやそれをとめるためのチェーンがついたロングコートは裾が前下がりになっていて、後ろ裾だけでも腿が隠れてしまっている。コートの奥から見えるシャツは臙脂色で、襟に付けられた黒いジャボの留め具やコートに縫われた刺繍も全て銀色にまとめられており、全体として暗く重たい空気を加速させていた。
「…」
ディードリヒの髪色はほとんど黒に近いほどの紺である。それ故暗い雰囲気の服を着てしまうと冷たく重たい印象になってしまうため彼自身は普段避けているはずなのだが、返ってその重い印象が彼の薄い水色の瞳を際立たせより美しく見えてしまい…リリーナは見惚れて足がドアの前から動かなくなってしまった。
普段着ることのない衣装は確かに新鮮で、それでいてあの瞳の美しさが際立つとなると思わず胸が高鳴ってしまう。
「ねぇマディ、これは流石に暗すぎじゃない?」
ぼうっと目の前の光景に見惚れていると、覗いたドアの向こうからそんな言葉が聞こえてきた。聴こえた声にはっとして何をやっているんだとは思いつつも、なんとなくそのまま会話に耳を傾けてしまう。
「だから良いんですよ〜。何もしてないディードリヒ兄様は仏頂面なんですから、いっそ暗い雰囲気の方がよく似合うわ〜」
「…さらっと悪口か?」
「あら、本当のことじゃない。リリーナがいないと凍てついた金属みたいで近寄りがたいもの」
「リリーナ以外に向ける顔なんてないからな。愛想笑い一つで十分だ」
「うわぁ、面倒な男…」
思わず眉を顰め彼の発言に引いていることを隠さないヒルド。しかしディードリヒが無闇に噛み付くことはなく、それ以上何か言うことはなかったので先日の喧嘩が功を奏しているのかと少し感心する。
「愛想笑いの自覚あったんですね〜」
「気づいてたならまたやってやろうか?」
「まさか〜、今の方が素敵だもの〜」
「…お前、それはそれで変わってないか?」
マディの発言にディードリヒは怪訝な反応を示す。リリーナは彼の発言に胸の中がもやりと音を立てたのを感じた。
(その発言は私まで“変わり者”だと言っているようですわ)
誰も見ていないと思うとついむくれてしまうリリーナ。彼女としては普段の笑顔なディードリヒも好きだが、あの冷たい表情も正直に言って美しいと思う。
普段の笑顔は自分への感情の表れを感じるので心が温かくなるが、あの冷たい無表情は彼の本来持つ美しさが際立ちそれはそれで良さがあるというか…結局どちらも彼なので、その違いに胸が鳴ることはあっても嫌な感情を抱く部分などない。その上で、あの笑顔が自分にだけ向いていると思うとそれがまた嬉しく思えるのだ。
そのときめきを他人との会話を通してとはいえ、なにかおかしいように言われてしまうのはリリーナとしては誠に遺憾である。
「そんなことないわ〜。ヒルドさんもそう思わない?」
「同意しますわ。あの薄気味悪くてぺらっぺらな笑顔より百倍はマシです」
「お前らな…」
少し困った様子のディードリヒを見ながら、リリーナはそっとヒルドとマディの意見に賛同した。故郷にいた頃に見かけた彼を自分は正直深く覚えているわけではないし、こちらに来てからのパーティでの彼は基本的に自分以外に笑いかけたりすることは殆どなかった…というか相手を威圧するために敢えて笑った時以外は見たことがなかったが、先日ソフィアに見せた彼の愛想笑いには正直ぞっとしたのを覚えている。
あの笑顔は本当に聞いた通りのものだった。文字通りの“愛想笑い”とでも言えば良いのだろうか、絵に描いた作り笑いを貼り付けたような表情であったと言って過言ではない。
何も知らない人間から見ればまるで広告に映る俳優のような笑顔に見えることだろう。しかしそんな見栄えがいいだけの笑顔など社交界で行うのは相手を馬鹿にしているようなものだ。
歯列の美しい歯の煌めく笑顔と、相手に警戒させないための親和性のある笑顔はものが違う。そして後者の笑顔を心がけることが、社交界においては最低限の礼儀だ。だがディードリヒはその歯の煌めくような笑顔だけでここまで他人と接してきたのである。実際に歯を煌めかせていたわけではないが…それでもリリーナからすれば呆れて言葉も出ない。
「リリーナは貴方の“あれ”を知らないと思うといっそ幸せなんじゃないかしら。本当にリリーナが可哀想、婚約者がこんなに薄っぺらい男だなんて」
「リリーナもあれは知っている。見せた時は呆れていたが」
「呆れない方がおかしいわよ。私貴方のそういうところ嫌いだったくらいだもの」
「お前には一生嫌われてていいな」
とはいえ、とドアの向こうに視線を戻すと、ディードリヒとヒルドが変わらず言い合っているのが見える。先ほどは多少成長が見受けられたが、それでも二人の仲は険悪なようだ。こういった嫌味こそ“愛想笑い”で流せ…という旨の発言をリリーナは先日したはずなのだが、彼がこういった話題において早々そんなことがうまくできるような人間でないのもわかっているので、リリーナは内心で静かにため息をつく。
「やっぱり貴方なんかにリリーナを預けるのは不安だわ。リリーナの親友である私にさえ噛み付くなんて、リリーナが悲しんじゃうもの」
「お前の安い挑発に乗るほどのことはないな。リリーナは僕のリリーナであってお前の所有している存在じゃない」
「へぇ…あれから何があったのか知らないけれど、やっと当たり前のことに気づいたの? 馬鹿なんでしょうとは思っていたけど、本当に馬鹿だったのね」
呆れた声で彼を煽るヒルドがわざとそういった言葉を選んでいるのは明白だ。彼女としてはディードリヒをやすい挑発で怒らせることで“リリーナに相応しくない”と彼を否定し続けたいのか単にディードリヒが嫌いなのか…どちらかなのだろうが、どちらにせよあんなに棘のある彼女は早々見られるものでもない。
「お二人ってとっても仲良しなのね〜。リリーナさんが嫉妬してしまいそう〜」
「よくわかったなマディ。そう、リリーナは僕の人間関係に嫉妬を見せてくれるんだ…その度に嬉しくてどうにかなりそうになる」
「リリーナを不安に晒して気持ちいいってこと? 最低だわ…」
「言っただろ『お前の安い挑発には乗らん』と。いくら嫉妬に怒るリリーナが可愛かろうとも同じ轍は踏まん」
ディードリヒは思っていたより先日の喧嘩を細かく覚えていたらしい。リリーナの一言一句覚えていてもおかしくない彼ではあるが、こうして覗き見ているとヒルドの煽りに大きく時間を割かない辺りにやはり成長を感じる。
「はいはいご立派なことね。今更そんなことで威張られても恥ずかしいだけよ」
「言いたいだけ言え。ここにリリーナがいない以上目くじらを立てても何にもならん」
と、言いながらなぜかディードリヒの視線が、こちらに向いた。
「!」
その瞬間、思わず足が一歩後ろに下がるリリーナ。だが視線は変わらずこちらに向いている。気のせいではない。
いつからここにいたのがバレていたのかはわからないが、確実に彼はこちらに気づいている。後でつつかれなければいいのだが。
「本当かしら? 私には貴方がこれからリリーナと撮影できることに機嫌をよくしているからにしか見えないのだけれど」
「確かに機嫌がいいのは嘘じゃないが、それだけで目障りなお前を許容できるほど馬鹿でもない」
「へぇ…本当に分別がついたのなら、私がリリーナにちょっと抱きつくくらい構わないわよね?」
ヒルドの言葉にディードリヒが反応して、彼の視線が戻っていく。その瞬間なにか静電気が弾けるような音が聴こえた気がした。
「へぇ…またあの時みたいに煽りたいのか?」
「なによ、友達なんだから少し抱きつくくらい常識の範囲内だわ。それこそこの間みたいに脚を絡めようって話じゃないんだから」
「ヒルドさん、私そのお話詳しく聞きたいわ〜」
「喜んでお話しますわ、マディ公女」
ディードリヒには噛み付くような睨み顔を見せているのに、マディ相手となると淑やかに微笑むヒルド。若干状況が混沌と化してきているが、リリーナはうまくタイミングが掴めずその場に留まってしまう。
「まぁ…多少抱きつく程度なら許してやらんこともない。本当に僕を煽ろうって話じゃないならな」
「貴方を煽って何になるって言うの? あの時だって戯れてただけなのに勝手に突っかかってきたのは貴方でしょ?」
「それはどの口が言うのか是非聞かせて欲しいな」
「何? 安い挑発には乗らないんじゃなかったの?」
段々空気が険悪なものに冷え込みつつある。リリーナとしては喧嘩をしている二人よりもその状況を何やらメモにとっているマディに不思議な感情を覚えるが、それ以上に気になるのはディードリヒだ。
先ほどの視線から考えるに、おそらくディードリヒは敢えてヒルドの言葉に乗ろうとしている。「早く来ないとどうなるかわからないよ?」とでも言いたげなその姿にリリーナは強い苛立ちと殺意を覚えた。
「…っ」
眉間に深い皺を寄せ、ディードリヒを強く睨みつけるリリーナ。それこそこちらが挑発されているわけだが、これ以上話が悪化するのは耐えきれずやや乱暴にドアを開けた。
「そこまでになさい、二人ともです」
少し怒った様子を隠さないリリーナの言葉に向けられた視線は三つ。
「お帰りなさいリリーナ。わぁ…とても素敵に似合っているわ」
「おかえりなさいリリーナさん〜。これからディードリヒ兄様と併せで撮影するのでよろしくね〜」
純粋にこちらを褒めてくれるヒルドと温かく迎えてくれるマディ。そして、
「おかえり、リリーナ」
そう言っていたずらに微笑むディードリヒであった。
「…」
“何も知らない”とわざとらしく言いたげな彼の笑顔を強く睨みつけるリリーナ。だが彼はリリーナに向かって「すごく似合ってるよ、綺麗だ」と嬉しそうに言いながら微笑むばかり。全くもってどうしようもないとしか言いようがなく、リリーナは敢えて反応せずに視線を逸らした。
「あぁでも、帰ってきてくれたところ悪いのだけれど…次の撮影場所はここではないの〜。エントランスの階段で撮影したいから、下へ降りましょう〜」
「階段で撮影…ですの?」
「えぇ〜、暗い雰囲気のお洋服だから照明を調整したいのと、雰囲気が変わるから場所を変えたいの〜」
「わかりましたわ、そういったことでしたのね」
場所を移動する理由を聞いて素直に納得するリリーナ。確かに今日も服によっては庭に出ていたりもしていたので、理由があるのなら異存はない。
「写真はどうしても白黒になってしまうから光度に気をつけないと〜…色のついた写真を撮れる写真機ってまだ見つかっていないのよね〜」
そう呟くマディは心底残念そうで、ディードリヒはそれに同意している。対してリリーナは少しマディの言葉に驚いた。
写真というとリリーナは白黒のものしか見たことがなく、そういうものなのだろうと思っていたが言われてみれば絵画も目の前の景色にも色がついているのだから彼女たちの言うことはなにも間違っていない。しかしその発想のなかった自分にとってはとても革新的に聞こえた。
「では移動しましょう〜、ついてきて〜」
そんなことを考えていたら不意に聞こえたマディの言葉にはっとする。一先ずリリーナは彼女の言葉に同意して、写真屋を含めた全員で部屋から出た。
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